【徳川家康の年表】どんな出来事があった?中学生向けに簡単に解説!

徳川家康は知らない人がいないと言われるほど超!有名な武将だよね。

江戸幕府を開き、長期にわたって戦のない平和な世を築き上げたこの人物。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」とも例えられる家康の性格とは?しっかり解説していくよ!

徳川家康の生涯年表まとめ!

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人質として過ごした幼少期から織田信長の盟友へ

家康は三河の国を治めていた松平家の嫡男として生まれたんだ。

でも、三河の国はお隣の今川家が勢力を誇っていて危うい状態が続いていた。

 

そして、家康は6歳になると人質として今川家に送られることになったんだけど、なんと今川家とライバル関係にあった織田家に拉致されてしまう。

そこで後に盟友となる織田信長に会ったんだ。

2人はなんやかんやと仲良しの遊び相手だったという説があるんだけど、真実は良くわかっていない。

 

8歳のときにようやく織田家から解放されて、やっと本命の今川家の人質となった。

結局は人質なんだけどね。

 

そのままそこで元服をむかえ、今川義元に仕えていたんだけど18歳の時に桶狭間の戦いで義元が討ち死にしてしまう。

【参考】⇒ 今川義元の年表まとめ!桶狭間での織田信長との戦いなどを解説!

 

これ幸いとばかりにその混乱に乗じて独立し、織田信長と盟友を結び徳川家康と名乗るようになる。

それからはコツコツと自分の領土を広げたり信長の元で武勲をあげたりと地道に活動していたんだ。

信長とは初めは対等な関係だったんだけど、だんだんと力の差がつき始め、結局は家康が信長に服従する関係へとなっていったんだ。

九死に一生!~三方ヶ原の戦い~

引用:wikipedia

三方ヶ原(みかたがはら)の戦いは戦国最強と名高い武田信玄と交えた戦だ。

この戦い、家康にとっては2度と経験したくない、思い出しただけでもぞっとするような戦いとなった。

 

この戦いで家康は「素通りがムカついたから」という理由で戦いを仕掛け、歴史的大敗を期し、命まで危ういという大失態を犯してしまう。

 

当時、武田信玄は織田信長討伐のため西上作戦を進めていた。

このとき、家康は思った。

「自分が住む浜松城も狙われるのでは?」

信玄を迎え撃つため、信長からの援軍とともに浜松城で戦の準備をして待ち構えていた。

 

しかし、まさかの素通り…

信玄の行動にムカついたのかプライドが傷ついたのか、家康は追いかけて行って背後から攻撃しようとした。

が、一枚上手だったのは信玄。

三方ヶ原にて家康の軍を待ち伏せしており、あっという間に家康軍を撃破。

 

家康もあともう少しで討ち死にというところまで追い詰められ、決死の思いで浜松城まで逃げ帰った。

(逃げる途中、あまりの恐怖から馬の上で脱糞したという逸話まで残っている…。)

 

ちなみに家康は若いころから晩年の戦まで、逃げ足の速さは天下一品だったという。

この大大大敗走のくやしさ(と恐怖)は生涯忘れることなく、自らの戒めのために姿絵に描かせたほどだったとか。

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信長からの非道な命~妻子を殺せ~

九死に一生を得ながらも、信長の盟友として出世していき、大大名の一人として名を轟かすようになった家康。

しかし、その生涯において最悪最低な出来事が彼を襲った。

 

嫡男・信康を切腹させた「信康事件」だ。

敵である武田家と内通したとして、織田信長の命じられたものだった。

 

信康は家康と今川家出身の正室との間に生まれた嫡男だ。勇猛果敢であり、いくつもの戦いで手柄を立て将来有望。家康本人や家臣からも立派な跡継ぎになるとして期待された人物だった。

 

にもかかわらず、なぜこのような結末を迎えてしまったのか。

それは信康との妻であった五徳姫との関係性に問題があった。

 

信康はわずか9歳のときに信長の娘である五徳姫と結婚していた。

これは、家康と信長が同盟を組んだ証としてとりおこなわれたものでした。

しかし、この五徳姫と姑である家康の正室との折り合いが悪く、そのせいで信康と五徳姫の仲も不仲になってしまった。

そしてある日、信長の元に五徳姫から

「夫と不仲で辛い思いをしていること」

「夫と姑は密かに織田を裏切り敵である武田勝頼と内通している」

と書かれた手紙が届いた。

 

激怒した信長は、徳川家の重臣に事の次第を尋ねたところ、この重臣は全て真実であるという。

その結果、信長は家康に対して「信康の切腹」を命じたのです。

家康はというと、当時は信康とは離れた場所に住んでおり事態を把握しておりませんでした。まさに青天の霹靂といった状態。

 

何かの間違いではと思ったが、もう徳川の重臣が真実と認めてしまっている。

家臣にも激震が走り、信長に従おうというもの、いっそのこと武田に寝返ろうというもので真っ二つ。

家康は考え抜いた揚句に苦渋の選択を下す。

信康は切腹、五徳姫の姑にあたる自身の正室を殺害

 

こうして家康は自慢の跡継ぎを失ったわけなんだけど、なぜこんな悲惨な事件がおきてしまったのかは実は様々な説があります。

近年の研究では、信長の命令ではなく、信康が自分に対してクーデターと企てていると察知した家康が先手を打って始末したのではという説も出てきた。

しかし、いづれにしてもこの事件が家康の生涯で最大の事件だったことは間違いない。

優秀な嫡男を失ってしまった落胆は大きく、天下分け目の関ヶ原の戦いのときに、息子であり江戸幕府2代目将軍となる秀忠が大きなミスをした知ったとき、「ああ、信康が生きていてくれたら」とぼやいていたそうだよ。

待ちに待った天下取り!天下分け目の大勝負~関ヶ原の戦い~

引用:wikipedia

本能寺の変で信長が死んだあと、その跡目を巡って豊臣秀吉と対立した家康。

一時は合戦において秀吉に勝利するものの、後に負けてからはさっさと天下取りから手を引き、秀吉と同盟を結んだんだ。

この同盟を結ぶにあたって、秀吉は土下座せんばりの勢いだったらしい。

それほどに秀吉は死ぬまで家康を危険視し、自分に従ってもらうために自分の妹を正室として送り込んだり、自分の母親までも人質として差し出したりしたんだ。

【参考】 ⇒ 【豊臣秀吉がしたことは?】生涯年表を小学生向けに簡単にまとめるぞ。

 

そこまでされた家康は秀吉の望み通り忠実な律義者として、豊臣政権を支える重要な柱として在り続けた。

 

そう。秀吉が死ぬまでは。

 

律儀なふりして腹の中ではずっとずーっと何年も辛抱強く天下取りのチャンスをうかがっていたんだ。

家康が「鳴くまでまとうホトトギス」と言われるのはここだ。

 

秀吉の死は待ちに待った天下取りのチャンス到来だ。

表向きは秀吉の大切な遺児である豊臣秀頼(ちなみに自分の孫娘の婿でもある。)を支えながら、裏では有力な大名と婚姻関係を結んだり同盟を結んだりとぬかりはない。

そして、この家康の危険な動きを察知し、なんとかしようとした人物がいる。

それが石田光成だ。

 

この両者の権力争いはついに大規模な戦にまで発展した。

そう。天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いだ。

 

家康率いる東軍88000人。対する光成率いる西軍は85000人。

両軍の兵力に大きな差はなく、戦いは長引くと思われた。

しかし、予想に反して、戦いはたった1日で、それも東軍(家康)の圧勝として幕が下りた。

なぜなのか。その理由は主に3つある。

① 家康と光成の人気・実力の差

若いころから戦ばかりで、関東のほとんどを手中に収める家康に対し、まだ若く経験も浅い光成は領地は1国だけ。戦より政治が好きな頭脳派タイプ。

その上、光成は嫌われ者で、光成が西軍だから東軍に入る!といった武将もいたほど…。

② 小早川秀秋の裏切り

西軍の15000人の兵力を与えられていたこの人物。

実は裏で家康とつながっており、裏切る手筈は合戦前より整っていた。実はこの秀秋も光成が大っ嫌いで恨みすらあった。

西軍の大軍を率いて関ヶ原を一望できる松尾城に陣取った秀秋は、光成の期待に反して同じ西軍に襲い掛かり、それを皮切りにあちこちで次々と家康側に寝返っていく武将たち…。

③ 西軍総大将毛利家が動かない

実は西軍の総大将は光成ではない。中国地方を手中に収める名門毛利家だ。

しかし、この毛利家すら家臣が家康と裏でつながっていたんだ。

毛利家はピクリとも動かず傍観。総大将が動かない西軍大混乱。

しかも、合戦が始まって早々に光成に黙って家康と和睦しちゃったという。

こうして、天下分け目の戦いに見事勝利した家康は、ついに朝廷から武士の頂点である征夷大将軍に任得られ、江戸に幕府を開き初代将軍となったんだ。

待って待って待ってやっと天下を手に入れた家康はもう61歳になっていた。

 

⇒ 【毛利元就の生涯年表】わかりやすくまとめていくぞ!

61歳の老将軍!江戸幕府の礎と豊臣家の滅亡

こうして将軍となった家康だったが、すぐに将軍を3男である秀忠に譲り、自分は大御所と称して政治の実権を握った。

これは、「将軍は徳川家が代々継いでいく」ということを他の大名たちへアピールした形になった。

 

そして、家康は大名たちの配置の取り決めや武家諸法度などの法律を定めたりと次々と幕府の制度を整えていった。

そうして幕府も順調に軌道に乗った1615年。

唯一、江戸幕府に敵対する可能性があった豊臣家を大阪冬の陣・夏の陣にて滅亡させた。

これにより、徳川家に対抗できる勢力は0となった。

そして、翌年1616年。家康は75歳でその天寿を全うした。

死因は胃ガンだったという。

家康は死に際、次のような辞世の句を残している。

「先に行く 後に残るも同じこと 連れて行けぬを わかれぞと思う」

=「先立つが、残ったお前たちもいずれは同じく死ぬのだ。だが、道連れはせぬぞ。ここでお別れだ。」

家康は死後、神格化され日光東照宮に祀られることとなった。

まとめ!

家康が天下人となったのはなんと61歳の時。

あきらめずに地道にチャンスを待ち続けるというのは1番難しい事かもしれません。

これを成し遂げた家康だからこそ、約260年もの長きにわたる幕府を作り上げれたのではないでしょうか。

⇒ 【織田信長がしたことは?】生涯年表を小学生向けでまとめるぞ!

 

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