【豊臣秀吉がしたことは?】生涯年表を小学生向けに簡単にまとめるぞ。

みんなは豊臣秀吉という名前は1度は耳にしたことがあるだろう。

あの有名な大阪城を造り、天下人となった人物だ。

ではこの人、どのように天下を手に入れたのだろう?

そして天下人となってからはどんなことをしたんだろう?

しっかり解説していくよ!

豊臣秀吉がしたことは?生涯年表まとめ!

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バッチコイ!下剋上!足軽出身の「サル」!

「下剋上」っていう風潮は知ってるかな?

下の身分の者が実力で上の身分の者を倒してのし上がっていくことなんだけど、戦国時代はこの風潮が当たり前になっていた。

 

この秀吉だってそうなんだ。

元々は足軽といって武士と農民の間のような身分が低い生まれだったんだ。

名前も最初は「木下藤吉郎」といっていかにも農民!って感じだよね。

それが出世、出世、大出世。

天下に名高い大名にまでのし上がり、ついには朝廷から関白の地位と「豊臣」の姓を与えられて天下人となったんだ。

そう「豊臣秀吉」という名前は天下人となってから名乗るようになったんだよ。

(それまでは「木下藤吉郎」→「羽柴秀吉」と変わっていた。)

 

さて、この秀吉。出世するきっかけはなんだったのか。

秀吉は元々頭が良く、口も達者で野心もあった。

このまま足軽で一生を終えるなんて嫌だべ!

そこで秀吉は尾張を統べる大名、織田信長の家来になりに行った。

 

信長はすぐ家臣として重宝した…わけじゃないんだよね。

「とりあえずこれでもしとけ」と秀吉に自分の草履番をしろといった。

草履番とはその名の通り、信長が出かけるときにそっと草履を差し出すという仕事。

 

これ、おもしろいと思う?

おもしろくないよね。

でも、秀吉はそんなつまらない仕事でも機転を利かせて一生懸命取り組んだ。

ある寒い日、信長が草履に足を入れると冷たいはずの草履が温かい。

これはいったいどうしたことかと秀吉に聞くと、

なんと自分の懐に入れて温めていたという。

 

信長はこの秀吉の行動に感心して家臣とした。

秀吉はめきめきと頭角を現し、合戦で重要な役を任されるようになってからはどの合戦においても見事に信長の期待に答えていった。

秀吉は頭が良くて口も上手い。その2つを用いて合戦を有利に持ち込んでいたし、元々陽気な人物で信長から

も「サル」と呼ばれて可愛がられていたんだ。

「人たらし」なんて呼ばれていた秀吉。

この性格が出世へと導いていたんだね。

親方様の敵討ち!からの天下ゲット!

このまま信長が治める天下の元、有能な右腕として一生を終えると思っていた矢先。

あの天下を揺るがす大事件が起きた。

本能寺の変だ。

なんと自分を重宝してくれた信長が同じ家臣団の1人である明智光秀に討たれたというではないか!

その時、秀吉は中国地方を平定するために信長の命を受けて毛利氏を水攻め真っ最中。

あとは降伏を待つだけだったんだけど、お家の一大事!

こんなところでトロトロしてられない!

と、すぐさま水に浮かぶ孤城と化した備中高松城の中にいる毛利氏と交渉開始

光秀に寝返りそうな武将に手紙を書いて時間稼ぎ、

猛スピードで岡山から京都まで引き返し、山崎の戦いで明智光秀撃破!

 

この間、およそ11日。

 

これを中国大返しといって秀吉の生涯でも大盛り上がりのところだ。

10日間で230キロも移動したとかすごすぎるよね。

この驚異的なスピードで見事信長の敵を討ち、正式な後継者となった秀吉はその後

自分に刃向ってくる武将を合戦で薙ぎ払ったり、

はたまた話し合いで手なずけたり(こういうのも得意=人たらし)してついに天下統一を成し遂げたんだ。

天下人秀吉!その治世とは?

朝廷から関白・太政大臣の地位と「豊臣」という姓を与えられた秀吉。

自分は大阪に築城した大阪城に住み、いよいよ本格的な治世を行います。

では主な秀吉の治世をみていこう。

刀狩

まず秀吉は刀狩令を出して、民衆から武器を奪ったんだ。

刀や弓や槍や鉄砲など全ての武器となるものを没収した。

これは民衆の武力を削ぎ、一揆などを起こさせないためなんだ。

 

室町幕府が弱体化した理由の1つに民衆の一揆が多発したことがあげられる。

武器を手にした農民の力は歴史が物語っていたし、自分も農民出身だからよく分かっていたんだね。

また、農民を農業に専念させて安定して年貢を納めさせるという狙いもあったんだ。

 

この刀狩令、農民には「お寺に大きな大仏を作るために鉄が足りない。みんなが武器を差し出してくれたらそれを基にして大仏を作るよ。大仏のために協力してくれたんだから、その後は幸せに暮らせるよ。」って内容でお触れを出したんだ。

さすが秀吉。

本音はどうであれ、人の心を動かすのが上手いよね。

農民は素直に刀を差し出したようだよ。

太閤検地

太閤検地とは全国規模で行われた土地調査のことだよ。

山崎の戦いの後から死ぬまで続けられたんだ。

なぜ「太閤」と言われているのかというと、当時は関白だった人が地位を譲った後、太閤という呼び名で呼ばれていた。

秀吉も関白を甥に譲っていたから、太閤殿下と呼ばれていたんだ。

その人が行った検地だから太閤検地というわけ。

 

この検地の目的は全国各地の生産量を把握して効率よく年貢を取ることだ。

当時、土地制度は複雑化していて結局誰のものかわからず、グチャグチャになっていたんだ。

秀吉はそんなグチャグチャを1回全部やめて、きれいに整え直すことにした。

土地を耕している人が土地の所有者だから、その人が責任を持って年貢を納めることで全国を統一した。

また、京枡を使って基準を統一し、米の生産量を正確に割り出せたんだよ。

兵農分離

簡単にいうと、身分を武士と農民と分けることなんだけど、なぜこれを徹底したのか。

この戦国時代は武士と農民の身分の差がほとんどなかったんだ。

戦があったら足軽(=歩兵)として参加、なかったら作物を作って生活と、中途半端だったんだね。

しかも、武器を持ってるからすぐ一揆一揆と刃向ってくる。

 

農民が耕作してくれないと田畑は荒れるし、年貢システムも上手くいかない。

だから秀吉は刀狩や太閤検地を行って、武士は武士!農民は農民!

武士の真似事しなくていいから、しっかり農作物を作りなさいって身分をしっかり区別したんだ。

 

また、人掃令という法律も出して、農民が勝手に武士に、武士が勝手に農民になることを禁止した。

これらの政策により、国内が平和になり、作物の生産量もアップし、人々の生活も安定したんだ。

でも秀吉はもう1つ。

ある大きな目標があったんだ。

それはなんと日本を飛び出して大陸へと出兵すること。

そのために秀吉はその足掛けとしてお隣の朝鮮に兵を出したんだ。

朝鮮出兵

この政策は今までの陽気な秀吉像とは違い、彼の野心家としての冷血な一面がよく表れている。

 

国内も安定した晩年、秀吉は中国の明国を征服しようとした。

そのために朝鮮へ日本の属国となるよう要求したが、朝鮮はこれを拒否。

 

秀吉は第1軍を朝鮮に出兵させ、一時は朝鮮を占領するも、明が軍を率いてやってきて泥沼化。

結局、秀吉の死とともに朝鮮出兵は取りやめられたんだけど、

なぜ秀吉は朝鮮へ出兵し民国まで占領しようと考えたのか。

 

今までは秀吉耄碌(もうろく)説、野心説などが一般的だったんだけど、

最近の学者さんの中で研究されているものが対スペイン説

(※耄碌…年をとってぼけること)

 

当時の世界はスペインを始めヨーロッパの国々があちこちを植民地化していて、残っていたのが明と日本くらい。

そして、スペインはイエズス会というキリスト教の宣教師を日本に送り込み日本人を改宗させようとした。

 

スペインのやり方は調子いいこと言ってキリスト教に改宗させた後、国に一気に攻め込み植民地にするというもの。

秀吉はこのたくらみを阻止しようと考えた。

まず、バテレン追放令を出し、イエズス会を追い出した。

そして、スペインに対抗し、日本の国力を見せつけようとして明を征服しようとした。という考え。

 

歴史って面白いよね。

物事1つでも様々な説があり、突き詰めていくと今まで知らなかったものが見えてくるね。

この朝鮮出兵はまだはっきりとは分かっていないんだけど、結果は失敗。

京都には大名が頑張った証しとして持ち帰った朝鮮人の耳塚や鼻塚があるよ。

まとめ

天下人となり、栄華を誇った秀吉なんだけど、

なかなか子宝には恵まれず、57歳の時やっとのことでできた世継ぎ秀頼。

 

秀吉はこの秀頼を溺愛し、自分の跡継ぎとして決めておいた甥を処刑したり、自分の死後も秀頼が天下人であり続けられるように体制を整え直すんだけど、62歳でその生涯を閉じた。

これは秀頼が5歳の時だった。

病死だったんだけどその病名までははっきりとされていない。

その後豊臣家は、あれよあれよという間に徳川家康によって滅ぼされてしまう。

身分の低い足軽から天下人にまでのし上がった秀吉の生き方。

その生き様は今なお人気を誇る理由の1つだね。

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