【中学歴史】松平定信の改革、その内容と失敗とは?

田沼意次のときにわいろが横行し、荒れてしまった江戸幕府。

その政治の立て直しを図ったのが、松平定信(まつだいらさだのぶ)だ。

定信が行った政治は江戸幕府三大改革の1つで、「寛政の改革」と呼ばれているよ。

 

松平定信は、11代将軍の時に老中だった人物で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。

定信は吉宗のことを大変尊敬していたと言われているよ。

性格は、ド真面目。クソ真面目。冗談が通じない堅物の中の堅物(笑)。

元々は徳川御三卿という名家の1つである田安家に生まれ、幼いころからとっても優秀。

時期田安家当主と目されていたが、無理やり白河藩に養子に出されてしまう。

これは田沼意次に対しての批判をあまりに堂々としたため…といわれている。

血筋的にも申し分なく、もしかすると次の将軍だったかもしれなかった定信にとって、この養子は屈辱的だったもの。

でもグレることなく、真面目に政治を行っていたんだ。

そして、白河藩主のときに天明の飢饉がおきた。

しかし、定信の政策により、白河藩では餓死者は0。

この政治的手腕がかわれ、田沼失脚後、期待の星として改革に着手してゆくのだが…。

定信が行った政策をざっとまとめるとこんな感じだよ。

引用:wikipedia

松平定信(1758~1829年)

  • 11代将軍の時の老中
  • 寛政の改革を行う
  • 荒れた農村の復興
  • 貧しい人々の救済
  • 倹約令
  • 寛政異学の禁
  • 株仲間の解散

荒れた農村を救済せよ~寛政の改革①旧里帰農令と囲い米~

当時は天明のききんによって地方の農村は荒れ放題、江戸は出稼ぎに来る人で人口はパンク寸前という状態。

そこで旧里帰農令という制度を出し、江戸に来ている農民にお金を与えてを故郷に帰した。

この制度には強制力はなかったんだけど、なんとか江戸から地方へと人々を移動させようとしたんだ。

 

お金くれるんなら…と農民はしぶしぶ故郷へ。

まあ、江戸に居ても職は無いしね。

そして全国各地の大名には、囲い米と言って新しく蔵を作らせ、そこにききん対策として米を蓄えておくようにを命令したんだ。

この囲い米は、自身が白河藩主の時に行って成果があった政策なんだよ。

江戸の貧しい人々を救え~寛政の改革②七分積立の制度と人足寄場~

定信は江戸の人々に対して、米を蓄えておくのと同時にお金も蓄えておくようにしたんだ。

それが七分積立の制度だよ。

このお金は貧しい人々を救うために、町の費用を倹約して捻出させた。

また、当時の江戸は、職をもたない浮浪者たちでごったがえしていたので、人足寄場という場所を設けた。

これは今でいうハローワークみたいなもので、衣食住の面倒を見て職業訓練をしてやるかわりに手に職つけて働けと人々に促したんだ。

また、旗本たちにも救済措置を行った。

借金苦に陥っていた棄捐令(きえんれい)という法令をだし、利子の引き下げをしたり、借金をチャラにしたりしたんだ。

乱れた風紀は許すまじ~寛政の改革③倹約令と寛政異学の禁~

田沼時代に一時的に景気が上昇したことにより、人々の暮らしはぜいたく品を好む派手さが目立っていた。

そこにメスを入れたのが定信。

お前ら吉宗公の時の質素倹約を忘れたんかいと、倹約令をだし贅沢の一切を禁じた。

 

演劇や貸本(いまでいうレンタルショップ)といった娯楽や、贅沢な衣服を禁じ、違反者は問答無用で取り締まった。

また、わいろ政治が横行する武士にも、お前らわいろする暇があったら働け・武士の本質は武芸だろとばかりに倹約生活を強制し、ぎりぎりと乱れた風紀を引き締めまくったんだ。

 

そして、学問においては、朱子学を幕府公認の学問とし、それ以外の学問を禁止するという命令を下した。

これも破ったものは罰則が与えられたんだよ。

元々、江戸幕府では朱子学が盛んで、歴代将軍も朱子学に親しんできた。

それがだんだんと、朱子学以外の学問が流行だし、田沼時代には蘭学(西洋学)も取り入れられ、様々な学問であふれかえり朱子学はだんだん下火に…。

ここにも風紀の乱れがと言わんばかりに出された寛政異学の禁。

 

幕府公認の学問となった朱子学は、湯島聖堂という学問所を「昌平坂学問所」という名に改め、ここを幕府の学校とした。

朱子学で統一することで、幕府に忠実な家臣を育成しようとしたんだね。

人材登用のための試験も全て朱子学で統一されたんだよ。

また、幕府を批判する書物や風俗を乱したりする書物は厳しく取り締まられたんだ。

独占したらダメ!~株仲間の解散~

田沼時代に奨励された株仲間だが、定信はこれを認めなかった。

独占してしまうと、商品の価格が跳ね上がってしまったり、自由に商売が出来なくなってしまっていたからね。

これを廃止することにより、経済の安定を狙ったんだ。

 

寛政の改革結果発表!~あちこちで不満が出過ぎて失敗!~

「白河の清き魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」

この狂歌は、定信の政策を揶揄して読まれたものだ。

簡単に言うと、

もー定信は倹約倹約質素質素言い過ぎて厳しくて嫌だ!

自由だったころの田沼が懐かしい!

という民衆の声だね(笑)

 

定信は自身の性格も災いしてなのか、とにかく厳しすぎた。

民衆も不満でいっぱい、学者も不満がいっぱい

なんと武士からも不満が噴出!

 

しかも、頼みの綱であった将軍からもある事件をきっかけに信頼を失うことになってしまいます。

ある事件とは…

当時の天皇が、父である親王に上皇の称号を贈ろうとしていたんだけど、それを定信がダメって言った事件。

 

なんでそんな勝手なことを言うんだ定信よ!!

ということで、11代将軍の怒りを買ってしまった。

 

実はこのとき、11代将軍も天皇と同じようなことを考えていて、自分の父に称号を与え、特別扱いしようとしていたんだ。

なのに、それを認めないような前例を作ってしまった定信の行動は、すっごく都合が悪かったんだね。

 

こうして各所方面から不満が湧き出た政策は失敗し、定信も失脚するのでした。

まとめ!

以上、徳川綱吉の行った政治についてまとめました。大事なキーワードを下にまとめておきましょう。

  • 寛政の改革を行う→厳しすぎる決めつけから民衆の中で不満が起こり失敗に終わる
  • 荒れた農村の復興
  • 貧しい人々の救済
  • 倹約令→娯楽・ぜいたく品の禁止
  • 寛政異学の禁→朱子学以外の学問禁止
  • 株仲間の解散→商人から税が集められず失敗

 

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