【中学歴史】井伊直助まとめ!不平等条約からの安政の大獄、桜田門外の変とは?

ペリーの来航で開国することとなった日本。

幕府の権威は地に落ち、国内からも不満の声が次々と。

そんなとき、幕臣の最高権力者となったのが、大老である井伊直助

実はこの人物。NHK大河ドラマの記念すべき第一作目の主人公を飾った人物なんだ。

それほど、この人物の一生は波乱万丈。

井伊直助を取り巻く事件と一緒に解説していくよ。井伊直助の経歴についてざっくりまとめるとこんな感じだ。

井伊直助(1815~1860年)

  • 江戸幕府の大老
  • 1858年、日米修好通商条約を締結
  • 安政の大獄
  • 桜田門外の変で暗殺される

「埋もれ木」の生活から大老へ

井伊直弼は彦根藩の藩主の14男として生まれた。

母も側室で14男ということはもう家督を継ぐこともなく、直弼はまるで世捨て人のような境遇に置かれたんだ。

直弼は武芸にも優れ、頭も良い。

でも14男にそんな才能があっても宝の持ち腐れ。

 

直弼は自身の一生を花が咲かずにただ朽ちていく埋もれ木に例えていた。

しかし、30歳を過ぎたとき、なんと兄の急死を受け、彦根藩の後継者に就任した。

 

そして、藩主となってからは優れた政治的手腕を発揮し、藩政改革を行い名君と呼ばれたんだ。

幕府においても、開国派として発言力を強めていき、ついに大老として政治を動かすことになったんだ。

 

井伊直弼は、今の幕府に外国と戦う力はないと判断し、外国と貿易を行うことで列強たちに対抗する力を蓄えておくしかないと考えた。

ゆえに開国派と呼ばれる。

でもみんながみんなこのような考えではなく、今すぐ外国と戦争をしてやっつけておくべきだと主張する攘夷派で幕臣は真っ二つ。

特に攘夷派のトップだった徳川斉昭がまたやっかいな人物で…。

おまけに直弼の不運なところは、京都にいる公家や時の天皇もこの攘夷派だったことなんだ。

これがのちの悲劇へとつながっていくことになる。

日米通商修好条約を締結~天皇の許しを得ないままの調印→ブチ切れる攘夷派~

幕府は下田に赴任している総領事のハリスから貿易についての条約をアメリカと結べとせっつかれていた。

この条約の締結を、直弼は天皇の許可が降りてからと決めていたんだけど、攘夷派に周りを囲まれている天皇はもちろんOKなんか出すはずがないよね。

それでも直弼は天皇の説得を続けていたんだけど、ハリスにしても一刻も早く幕府と条約を結んでしまいたい。

早く早くとハリスにせっつかれた結果、

とうとう直弼は天皇の許可が降りる前に条約を締結させてしまった。

この条約は日米修好通商条約といい、おもな内容は次のとおり。

【日米修好通商条約】

  • 函館・神奈川(のち横浜)・長崎・新潟・神戸の5港を開港
  • アメリカに領事裁判権を認める
  • 日本に関税自主権がない

領事裁判権とは、日本で犯罪を犯したアメリカ人を日本の法律ではなく、アメリカの法律で裁くというもの。

関税自主権とは、アメリカから輸入したものに税金がかけれないので、アメリカ製の安いものばかり売れて、日本の産業を守ることができないというものだ。

 

これは日本にとって不利なことばかりだ。

だからこの条約は不平等条約とも呼ばれているんだよ。

この出来事は攘夷派をブチ切れさすには十分だった。

天皇の許可なく締結したばかりかなんじゃこの不平等さはと大バッシング。

直弼もしぶしぶ仕方なくだったんだけど、後に井伊直弼に対する悪いイメージはこんな背景があったんだね。

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安政の大獄~いうこと聞かないやつはこうだ!ブチ切れる井伊直助~

安政の大獄とは井伊直弼が攘夷派に対して行った弾圧事件だ。

自分の政策に反対する人々を容赦なく処罰していったんだよ。

 

井伊直弼がこれを実行したきっかけとなった事件がある。

アメリカとの条約締結や、次期将軍問題で井伊直弼と対立する大名たちは井伊直弼への不満がたまっていて、井伊直弼をやめさそうとする動きもあったんだ。

そして攘夷派の徳川斉昭が勝手に条約を結んだ井伊直弼に対して抗議しようと、江戸城に無断でやってきた。

当時は、江戸城には決められたときにしか来てはいけなかった。

しかし、斉昭はこの決まり事を破っていた。

 

直弼は斉昭の言い分を神妙に聞いていたんだけど、内心怒り大爆発だったんだろう。

その後、斉昭は藩主をやめさされ、死ぬまで屋敷からでられないという罰を受けた。

このことを皮切りに全国の攘夷派たちに対して厳しく弾圧が始まったんだ。

 

朝廷にも直弼に刃向う動きがあり、それを察知した直弼は、その計画に加担した公家や大名も処罰した。

こうして藩士や家老・大名までおよそ100人以上の人が処刑されたんだよ。

処罰を受けた人物の中には、吉田松陰西郷隆盛といった有名な人物もいたんだ。

桜田門外の変~井伊直弼暗殺~

引用:wikipedia

安政の大獄によって自分に刃向うものを容赦なく処罰した直弼。

でも、それによって多くの人の恨みをかってしまった。

特に藩主が生涯謹慎処分をくらった水戸藩は特に強い恨みを抱いていた。

 

そして水戸藩を脱藩して江戸にいた水戸浪士たちによって、井伊直弼の暗殺が計画された。

運命の1860年3月3日。

直弼は桃の節句の行事のため江戸城に向かった。

この日は季節外れの雪が降っており、護衛のものは皆雪用の衣装を着ていた。

そして、江戸城の桜田門についた時、事件は起きた。

 

大名行列の見物客に紛れて水戸浪士の一人が行列の前に立ちはだかり、注意がそらされた警備兵が目に移動したとき、別の浪士が直弼の乗っていた駕籠に向かって拳銃を発砲。

直弼は銃弾を腰に受け、身動きが取れない。

その隙をついて残りの浪士たちが、一斉に駕籠に切りかかる。

牡丹雪が激しく降り視界も悪いうえ、警備兵は雪用の服のため素早く反応できない。

直弼の乗っていた駕籠にめがけて突き刺さる刃。

そしてすでに死にかけだった直弼は駕籠の外へ引きずり出され、首をはねられてしまったんだ。

 

襲撃開始から直弼の首がはねられるまでわずか10分程度のできごとだったようだ。

この桜田門外の事件のあと、襲撃者たちはつかまり処刑された。

そして、井伊直弼が死んだことにより、安政の大獄によって処罰されていた大名は幕府に復帰。

でも、幕府の最高職の人物が浪人ごときに簡単に首がはねられたという事実はますます幕府の威厳がなくなり、世の中の討幕ムードを加速させる原因となってしまったんだ。

まとめ!

以上、井伊直弼についてまとめました。大事なキーワードを下にまとめておきましょう。

  • 江戸幕府の大老
  • 1858年、日米修好通商条約を締結
  • 函館・神奈川(のち横浜)・長崎・新潟・神戸の5港を開港
  • アメリカに領事裁判権を認める
  • 日本に関税自主権がないという不平等な条約だった
  • 安政の大獄→井伊直弼の政策に反対する人を処罰した事件。100人余りを処罰
  • 1860年桜田門外の変で暗殺される→水戸浪士たちによって江戸城の桜田門にて暗殺

 

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