【上杉謙信の年表】どんなことをやった?簡単にまとめていくぞ!

上杉謙信と言えば甲斐の武田信玄の永遠のライバルとされ、戦上手で有名な戦国武将だ。

「越後の龍」「軍神・毘沙門天の化身」とも称されるこの人物は果たしてどんな人物だったのだろうか。

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上杉謙信の生涯年表まとめ!

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軍神・毘沙門天の化身と呼ばれた偉大な関東管領

上杉謙信は越後の国の守護代を務めていた長尾家の4男として生まれた。

越後の国も他の国の例にもれず戦乱まっただ中。

でも謙信は四男だったから、家督争いを防ぐためにも(父から疎んじられていたとも)幼い時に仏門に入ったんだ。

 

しかし、父の死後、家督を継いでいた兄から呼び戻され、還俗(出家をやめること)し名を長尾景虎と名乗るようになった。

兄から城を与えられ若き城主となった景虎。

15歳という年齢だったから、近隣の武将たちはこの城主を完全に舐めていた。

ここぞとばかりに攻め入るが、景虎はみごと返り討ちに。

なんとも華々しい初陣を飾ったんだ。

 

そして、19歳のときに兄から正式に家督を譲られ、長尾家当主に。

それからも関東を統一することに心を砕き、反抗する家臣や近隣の武将をバッタバッタとなぎ倒していった。

また、関東管領という室町幕府の役職の1つで、東国の武士たちを監視する鎌倉公方を補佐する役職を、上杉家から譲られ、名を上杉政虎と改めた。

上杉家は代々関東管領についていた家柄なんだ。

 

そしてその後、また名を改めついに上杉謙信と名乗るようになったんだ。

いっぱい名前が変わっているね。

 

謙信は初陣からもわかるように、とても戦上手!

生涯で70回戦って負けたのはなんと1、2回ほどだったとか。

まさしく向かうところ敵なし。

 

また、自分を戦いの神である「毘沙門天」の化身だと信じていて、出陣する前は必ず祈りを捧げ、自分の軍旗にも「毘」の文字を使用していた。

【毘沙門天】

wikipediaより引用

 

軍神である毘沙門天が率いる上杉軍。

その名に恥じぬ鬼神のような戦いっぷり。

この上杉軍にはあの魔王織田信長も大敗を期している。

 

謙信に言わすと

「信長は口ほどにもない。チョロイやつ。」なんだとか。

うん、最強!

こうして謙信は越後・越中・能登を平定し、全国にその名を轟かせたんだ。

⇒ 【織田信長がしたことは?】生涯年表を小学生向けでまとめるぞ!

ライバルとの死闘~越後の龍と甲斐の虎~

「越後の龍」または「軍神・毘沙門天の化身」と称される上杉謙信の生涯のライバル。

それは「甲斐の虎」武田信玄だ。

この2人が衝突した戦いは「川中島の戦い」といい、戦国時代で最も有名な合戦の1つだよね。

謙信率いる戦いの神である毘沙門天の加護を受けた上杉軍。

対するは信玄率いる戦国最強の武田騎馬隊。

北信濃の覇権をめぐって領地の境である川中島で激突すること5回。

およそ12年もの間に行われた長き戦いは、いずれも決着がつかなかった。

特に激しく両者がぶつかり合った4回目の戦いでは、信玄がキツツキ戦法と呼ばれる奇襲をかけようとしたところ、それを察知した謙信が逆に奇襲をしかけたり、なんと謙信と信玄が一騎打ちがあったと伝えられたりと、とてもエピソード豊富でもはや伝説級。(一騎打ちの銅像も立っているよ。)

 

被害も大きく、両者ぼろぼろすぎて勝敗がわからなかったほど。

反対に最後の戦いであった5回目では、両者にらみ合い、これといったドンパチも無く終了。

これ以降は戦うことは無かったんだ。

しかも、これだけ死闘を繰り返した2人はお互いをライバルとして認め合っていたみたい。

 

武田家が今川氏からの報復で他国から塩を買えなくなったときに、謙信が塩を送ってあげたり、信玄が亡くなったときは

「私の生涯のライバルがいなくなってしまった。」

と涙を流して悲しみ、3日間家臣たちにも行楽を禁止し喪に服したそうだ。

 

信玄も死に際に

「何かあったら上杉謙信を頼れ。やつは信用できる。」と遺言を残している。

刃を交えて友情が芽生えるってこれぞ戦国って感じだよね。

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義を貫いた誇り高き武将

戦国武将と言えば下剋上バッチ来い!

オレこそが最強と言わんばかりに自国の領土の拡大を目指し、みんな自分が天下統一してやる!って戦っていたよね。

でも、上杉謙信は違っていたんだ。

彼は裏切りや嘘を嫌い、義を重んじる誇り高き武将。

あくまで自分は室町幕府に仕える一大名であるというスタンスを崩さず、幕府から与えられた関東管領という役職を真面目にこなしていたに過ぎない。

 

謙信が戦をする理由は、自国を守るためと誰かを助けるため、将軍から与えられた使命を守るためなんだ。

信玄と長きにわたり激しく戦った川中島の合戦だって、元はと言えば信玄に攻められて逃げてきた武将をかくまってあげたからだし、それからも信玄が攻めてくるから迎え撃っていただけなんだ。

自分から信玄に挑んでいったことは無いんだよ。

 

また、信玄がピンチの時は塩を送ってあげて義を果たした。

上杉氏から関東管領を譲り受けたのだって、上杉氏のピンチを謙信が助けてあげていたことがきっかけだったんだ。

まあ、ちょっとばかりは領土拡大の目的もあったかもしれないけどね。

でも、当時の戦国武将たちの間でも、上杉謙信は義の人として有名だったみたい。

武田信玄は言わずもがな、長く謙信と争っていた北条氏、謙信に大負けした織田信長でさえも

「上杉謙信は敵だけど信用できる、義理堅い人物だ」と評していたんだって。

 

戦国時代ではとても珍しいタイプの武将。上杉謙信の魅力の1つだね。

謙信の死後と上杉家

上杉謙信は49歳のとき、脳溢血で倒れそのまま息をひきとった。

謙信はものすごくお酒が好きで、一度に飲む量も大量だったからそれが原因と言われている。

偉大な上杉家当主の急死の知らせに上杉家に激震が走った。

 

謙信は女嫌いで生涯一度も結婚しておらず、子もいない。(なんと謙信が女だったという説もある。)

そのため養子が2人いたが、どちらを跡継ぎにするか明言していなかった。

なにしろ、倒れてそのまま…な急死だったためそんな暇ないよね。

そこで、この2人の間で家督を巡っての争いが起きてしまったんだ。

 

このお家騒動のせいで、上杉家は戦力を大幅に低下させてしまい、そのまま室町幕府も倒れ、天下も豊臣→徳川へと移っていった。

上杉家は米沢藩の藩主として江戸幕府の一大名となった。

そこには謙信がいたころのような勢いはなかったようだ。

まとめ!

自らは毘沙門天の化身だと称し、天才的な戦上手でありながら、戦国武将にあるまじき義理堅さだった上杉謙信。

戦国武将の中でも人気が高いのはこういった魅力あふれる人物だったからなんだね。

 

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