【中学歴史】伊能忠敬まとめ!どんな性格?どんなことをやりとげた人なの?

今回の記事では、「伊能忠敬」のしたことについてまとめていきます。

伊能忠敬という名前は聞きなれない人も多いかもしれない。

伊能忠敬は約17年かけて日本全国を歩き回り、日本地図を完成させた人物なんだ。

でも、日本地図を作るためには様々な苦難があった。

この記事でじっくり解説していくよ。まずは伊能忠敬についてざっくりとまとめるとこんな感じだ。

伊能忠敬(1745~1818年)

  • 50歳で天文学者に弟子入り!
  • 17年かけて日本全国へ
  • 蝦夷地から九州までに及ぶ地図の完成
  • 伊能忠敬のエピソード

偉大な実業家から天文学者へ弟子入り!

忠敬は1745年、現在の千葉市の商人の家の子として生まれた。

小さい頃から、読み書きそろばんが大得意な少年だったみたい。

結婚して伊能家の婿養子に入って「伊能忠敬」と名乗るようになったんだよ。

 

婚家は酒造や米と様々な事業をしていたんだけど、あんまり上手くいっておらず…。

でも、忠敬は大変なやり手で、傾いていた家の事業を立て直したんだ。

立て直しただけじゃなく、えらく儲かっていたんだって。

また、すごく人望もあって村の名主にも選ばれた。

 

そして、天明のききんの時には、蓄えていた食料を貧しい人たちに分け与えたりして村内の餓死者数は0。

この近隣では有名な名主さんになったんだ。

しかし、忠敬50歳の時、息子に仕事を譲り、

自身は江戸に行って、なんと20歳も年下の天文学者に弟子入りして天文学を学び始めたんだ。

第二の人生ってやつだね。

とても熱心に勉強し、自宅を本格的な天文観測所にしちゃうほどのめりこんだんだ。

そして多くのことを学んだ忠敬は、地球の大きさを知りたい。

でも、そのためにはまずは日本の正確な地図を描こう!と決意したんだ。

日本地図を作るぞ!~蝦夷地から日本全国へ~

忠敬は、まずは蝦夷地の計測を幕府に許可を得たんだ。

蝦夷地とは北海道のことだよ。この時55歳。

当時の55歳だから、けっこうなお歳だけど、そんなのなんのその。

息子と弟子などあわせて9人と馬2頭で蝦夷地上陸!

 

測量道具もごく基本的なものにほぼ限られていた。

では測量方法はというと、一歩の歩幅を使ったんだ。

みんな一歩を70㎝になるよう事前に訓練してて、

数人で歩いた歩数の平均値を出して距離を導き出すというもの。

気が遠くなる作業だけど、当時は今と違ってメジャーなんかないからね…。

 

危険な場所も隅から隅まで測量し、

夜は星の位置など天体観測を行い、それを昼の測量結果と比べて誤差を修正していったんだって。

毎日40㎞を移動し、117日かけて蝦夷地を測量し終えました。

 

でも、ここで満足する忠敬じゃあない。

 

お次は東日本太平洋側へと出発。

ここでは約180㎝ごとに印をつけた縄を使って測量する方法に変更。

これで楽になったと思いきや、複雑に入り組んだ地形や断崖絶壁など危険な場所が多くやっぱり苦労は絶えなかったみたい。

ここでかかった日数は230日。

途方もない作業で辞めるかと思いきや、忠敬は黙々と日本各地の測量を続けます。

東日本が終わると、次は近畿や中国四国と言った西日本へ。

 

17年の日数をかけ、歩いた歩数は何と4万㎞!!

4万㎞とは地球1周分の距離に当たります。

55歳を過ぎているのにすごい…。

 

もちろん、すんなりと測量が終わっていったわけではない。

最初の測量である蝦夷地では、ロシアとの問題から幕府からなかなか許可が下りなかったり、中国地方の測量ではマラリアにかかってしまったり。

その他にも、長男が死んでしまったり、娘とけんかしてしまったりと様々な困難があったんだよ。

 

でも、忠敬はあきらめなかった。

そして最後の測量作業を終え、地図の製作作業に取り掛かっているときに、持病のぜんそくが悪化して、74歳の生涯を終えました。

忠敬の死後、弟子たちの手によって、「大日本沿海輿地全図」という書物にまとめられ、幕府に献上されたんだ。

伊能忠敬をめぐるエピソード

ここでは、もっと伊能忠敬について知ってもらうために何個かのエピソードをお話しするよ。

幕府も認めた偉大な人物!~商人なのに苗字帯刀~

伊能忠敬は、商人時代に天明のききんに見舞われたお話はしたよね。

その時、利根川の決壊の修復工事をしたり、治水工事といった事業にも手を出していた。

忠敬はこうした難解な工事を自分が今まで身に付けていた知識を基にして解決していたんだ。

 

そして、その功績が幕府に認められ、武士と同じ「名字帯刀」を許可されたんだ。

当時は身分がはっきりと区別されていたから、商人が武士と同じ立場になるということはものすごく名誉あることなんだよ。

忠敬は若いころから偉大だったんだね。

伊能忠敬の作った地図は幕府秘伝!

忠敬が作った地図「大日本沿海輿地全図」は幕府にとって非常に重要な書物となった。

これが国外に出ると、列強諸国から最悪侵略される恐れさえある。

だから、幕府は禁書として国外持ち出し不可とするんだけど、シーボルト事件でこれがあわや持ち出されてしまうというピンチに陥る。

当時、鎖国中で外国と微妙な距離感だった江戸幕府において、これは国家を揺るがす大事件だ。

首謀者は斬首刑となり、シーボルトも国外追放となってしまった。

一方、外国にとっても忠敬の優れた天文学や測量の技術は目を見張るものだった。

外国は改めて日本人の賢さを見直したと言われているよ。

まとめ!

以上、伊能忠敬のしてきたことについてまとめました。

大事なキーワードを下にまとめておきましょう。

  • 日本で初めての日本地図を作る(「大日本沿海輿地全図」→幕府の秘蔵書となる。)
  • 17年かけて日本全国を歩いて測量
  • 歩いた距離は4万㎞
  • 蝦夷地から測量

 

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