徳川家康が開き260年間続いた江戸幕府。
こんなに長期にわたって幕府を開き続けていくためには、制度を整えることが最重要!
ということでこの記事では、幕府を軌道に乗せた3代将軍徳川家光が行った政策について説明していくよ。
徳川家光の政策とは
引用:wikipedia
徳川家光の政策① 参勤交代~幕府の対する忠誠心を示せ!~
家光が大名を徹底的に取り締まるために定めた制度が参勤交代だ。
これは、大名を1年ごとに自分が治めている国=藩と江戸とを行き来させる制度だ。
ちなみに江戸に行くことを「参勤」、自分の国に帰ることを「交代」というよ。
なぜ、こんな制度を義務付けたのか。
それには2つの理由があった。
- 大名に幕府への忠誠心を示させること
- 大名に必要以上の力をつけさせないため
江戸幕府が成立した後、1万国以上の大名は江戸城下にそれぞれ屋敷を持っていて、そこに正室と跡継ぎを住まわせるように義務づけられていた。
いわゆる人質ってやつ。
そして諸国の大名は、自主的に江戸城の将軍の元に参勤し、
将軍家に対して忠誠を誓っていますと挨拶していた。
そこに家光は目をつけた。
自主的にではなく、義務としてやろう。
もっと忠誠を示せってわけ。
義務化された参勤交代だけど、これがまあ大変で…。
まずお金がかかる。
旅費はもちろんのこと、そんな手ぶらで気軽にいくわけもいかず、将軍への手土産や、大名の威厳を示すための行列を整えるための馬や武具やその他もろもろと何かとご入り用だった。
次に日数がかかる。
幕府からはあらかじめ何月何日までに参内するようにと決められていたから、それに合わせて綿密に計画を練る。
当然遅れるわけにはいかない。遅れるものなら不忠義ものとみなされ、即刻改易(=領地没収され大名じゃなくなる)かもしくは死刑。
今みたいに新幹線や飛行機で東京までびゅーんっていくわけにもいかないからね。
薩摩なんか水路と陸路でおよそ2か月もかかったんだよ。
しかも、参勤交代の制度は隔年で行われました…。
こんなことしてたら、とてもじゃないけど軍事力もお金も整わないよね。
家光はこうして将軍家の権威を高めまくって、
一方で大名の力を削いで反乱を起こさせないようにしていった。
だけど、参勤交代という制度は何も悪いことばかりではなかった。
この参勤交代のおかげで、大きな街道や橋が整えられ、宿場町もつくられるようになった。
そうすると庶民もその道を利用して全国各地に赴くようになり、産業が発展することになったんだよ。
徳川家光の政策② 鎖国~キリスト教徒は日本から出て行け!~
家光が外国に対して行った政策に鎖国がある。
この鎖国は家光が将軍になる以前より少しずつ進められていた政策であり、家光の代で完成したんだよ。
鎖国とは、外国人の入国を一切禁止するということ。
なぜ外国人はダメなのか。
その理由はキリスト教だ。
戦国時代に日本に伝えられたキリスト教は
江戸時代になると九州をはじめとして全国各地で信者を増やしていた。
信者が増えていただけならまだしも、
彼らは大勢で幕府に反抗してくるようになって、
時には違う宗教の人をむりやりキリスト教に改宗させたりということもしていた。
しかも、キリスト教はスペインやポルトガルと言ったヨーロッパの列強国が宣教師を送り込んで広めている。
もしかしたら、それらの国はキリスト教布教というのはただの表向きで、
いずれ日本を侵略するのが目的なのかもしれない。
そのことに危険を感じた幕府はキリスト教を禁止し、厳しく取り締まるようになった。
大名のなかにもキリスト教を信仰するものがいたんだけど
幕府はこれらに大名に対して、無理やりキリスト教をやめさせたり
それができなかった場合には、改易したりして取り締まったんだ。
そのようにしてキリスト教に対して、弾圧を加え続けていたんだけど
ついに事件は起きた。
農民とキリスト教徒たちの大規模な一揆が勃発したんだ。
長崎県で起きた島原の乱だ。島原・天草一揆とも呼ばれるよ。
3万人以上の農民やキリスト教徒たちが、
たった16歳だった天草四郎という少年を総大将として起こした乱。
天草四郎は元は武士の子で、熱心なキリスト教徒だったんだ。
小さい頃から優秀でしかも不思議な力を持っており、
盲目の少女を手が触れるだけで直したり、
海面を歩いたりと信じられないエピソード満載なこの人物。
厳しく弾圧されているキリスト教徒たちにとっては
自分たちを助けるために生まれ変わってきてくれたイエス・キリストだ!
と思ったのかもしれないね。(しかもかなりのイケメンだったとか。)
そして16歳になった彼は乱を起こし、それを指揮した。
家光は、この乱に対して
農民たちが起こしたただの一揆だろ…
と、思って軽く見ていたんだけど、なかなか鎮圧できなかった。
なぜなら…
反乱軍の中には、改易されたキリシタン大名の遺児やその家臣たちも交じって軍を率いていたからなんだ。
そう、ただのアマチュア軍団の反乱かと思いきや
その中にはプロも混じっていたってわけなんだ。
そりゃ、つえーわって感じ。
これに焦った家光は、老中をはじめとする各地の有力な大名たちに乱を制圧するよう命令した。
そして12万の幕府軍が総攻撃をしかけ、
天草四郎は討ち死にし、半年間も続いた乱はようやく鎮圧されたんだ。
国内のキリスト教徒たちの力を目の当たりにした家光は、
見せしめのために反乱軍の老若男女約37000人全てを処刑し、
約1年後、ポルトガル人を日本から追放し、本格的な鎖国を始めた。
国内では踏み絵を実施し、キリスト教を一掃
前にも増して厳しく弾圧していった。
踏み絵とは、キリスト教徒であるかないか見分けるもので、
イエス・キリストや聖母マリアの絵を踏ませるものだ。
踏めたら信者ではなく、踏めなかったら信者だというわけ。
そして、国外に対してはスペインやポルトガルとの貿易を禁止し、
キリスト教の布教の心配のないオランダと中国とだけ貿易を行うことにした。
しかも、港は長崎だけと限定された。
いくつも港を開けると、他の外国船が来てしまうからね。
この鎖国体制は、江戸末期に黒船が来航するまでずっと続けられたんだ。
⇒ フランシスコ・ザビエル年表まとめ!伝えたものはどんなこと?
徳川家光、その他の政策
幕府の役職の設定
幕府に老中・若年寄・奉行・大目付という役職をおき、
将軍を最高権力者「公方」という位置づけに確立させた。
父・祖父の「戦い」の時代から自らの「平和」の時代に合うように変更した。
力を持ちすぎた大名を排除
幕府を脅かす大名の改易(=領地・藩主の身分を没収=リストラ)や転封(=領地を変更すること)
重要拠点には親族である親藩や昔からの家臣である譜代大名に配置し直したりして、幕府に反抗できないようにした。
このように、幕府の基礎をより時代に合ったように作り変え、諸大名に対する幕府への絶対的な忠誠を確立させたんだ。
家光トリビア~家光って実はこんな人!?~
「余は生まれながらにして将軍である!」~ひ弱な性格からの脱却~
家光が将軍就任の時に言った名ゼリフ。
「余は生まれながらにして将軍である」
まだ年若い青年が、大勢いる大名の前で堂々とした態度で言ってのけたんだ。
この台詞やとった政策から力強い将軍を思い浮かべるけど、
本当の姿はそうではなかったみたいなんだ。
幼少期は病弱で気が弱く、外で遊ぶよりは中で絵を描くことが好きだったみたい。
恥ずかしがり屋で、もごもごと口ごもってしまい、
はっきりとなかなか自分の考えをいえない家光少年。
それに比べて、実の弟は健康で活発で文武両道。
家光は乳母である春日局に育てられ、弟は両親の元で育っている。
もちろん両親の愛情は弟にばかり注がれ、実母は家光を嫌ってさえいた。
あまり恵まれた家庭環境ではなかったんだ。
でもそれを救ってくれた人がいた。
祖父である家康だ。
家康は跡継ぎである家光のことを何かと気にかけてくれ、
家臣の前でもはっきりと「次の将軍は家光だ!!」と宣言してくれた大恩人。
(両親は家光ではなく弟を将軍にさせようとしていた)
大のおじいちゃん子で、大好きというレベルを超えもはや崇拝さえしていた。
そんな祖父の期待に応えようと、将軍になってからは
「おじいちゃんみたいな立派な将軍になる!」と決意して頑張ったんだね。
⇒ 【徳川家康の年表】どんな出来事があった?中学生向けに簡単に解説!
家光の妻~男色と女装癖という困ったクン~
実母に嫌われていた家光は、それが影響してか大の女嫌いだった。
そのこともあってか、家光は男色(=男同士の恋愛)を好み、女装をするのが趣味だったようだ。
一応、父に言われ、公家の娘と結婚はしていたが、夫婦仲はもう最悪。
結婚してすぐ別居。
以後、死ぬまで一緒に暮らしたことは無しの完全な仮面夫婦。
イケメンな小姓ばかりを相手にし、アラサーになっても子供ができる気配なんかまったくなし。
これに焦ったのが乳母である春日局。
この女性は両親の代わりに、家光に精一杯の愛情を注いで育て上げた人物。
家光もこの女性には心を開いていた。
押しても引いても全く女性に興味をしめそうとしない家光。
これに対して、何とかならんものか…
と、考え込んでいた春日局はあることを思い出した。
病弱で食が細かった幼い家光のために
何とか食事をとってもらおうと
七種類のご飯を用意し、家光にたくさんの選択肢を与えることで
その中から好きなものを選ばせることで、
食事を食べやすくさせてやっていたのだ。
いわゆる七色飯作戦だ。
当時の作戦を思い出した春日局は
今回もこれだーーー!とばかりに、
家光の好みそうな女性(ボーイッシュな美女)をたくさん集めて、男装させて家光に近づけたんだ。
この作戦が功を奏し、やっと家光も女性に興味を示すようになり、
8人もの側室をかかえ、世継ぎももうけることができた。
これには、春日局もほっと一安心。
以来、代々将軍のためにたくさんの女性が集まる大奥と呼ばれる後宮制度が整えられることとなったんだ。
女性に興味が持てた家光も、お万の方という最愛の女性を見つけることができ、愛情を注げるようになった。
めでたしめでたしだね。
家光の死因と墓~おじいちゃんのそばで~
家光は48歳の時に亡くなりました。
献上された茶碗を見ていた時に、
いきなり震えだして倒れ、そのまま意識が戻ることなく次の日に亡くなったんだ。
死因は脳卒中といわれているよ。
お墓は崇拝していた祖父家康の墓である日光東照宮のなかにある、輪王寺というお寺に建てられたんだ。
家光の「祖父の墓より豪華なものにしてはならぬ」という遺言に従い、
金と黒を基調とした重厚で落ち着いた造りになっているよ。
まとめ!
幕府の基礎を盤石なものとし、様々な政策をとった偉大な3代将軍家光。
「生まれながらにして将軍である」という言葉通り、
戦いの時代から平和な時代への移行期に立派に幕府を継続させたんだ。
家光がいなかったら、江戸幕府は260年も続いてなかったかもしれないね。
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