【中学歴史】室町時代のまとめ!出来事や要点を解説していくぞ!

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇と足利尊氏。

室町時代になりこの2人の関係はどうなっていくのだろう。

また、室町時代はどんなできごとがあって、誰が活躍したのか、詳しく解説していくよ。

室町時代の主な出来事年表

  • 1333年 鎌倉幕府の滅亡→建武の新政開始
  • 1336年 南北朝の分裂
  • 1338年 足利尊氏が征夷大将軍に→室町幕府が開かれる
  • 1392年 足利義満が南北朝を合一
  • 1404年 日明貿易の開始
  • 1428年 正長の土一揆
  • 1467年 応仁の乱

この記事では建武の新政・足利義満の政治・正長の土一揆・応仁の乱について説明していくぞ。

建武の新政と南北朝時代

悲願であった鎌倉幕府の討幕を果たした後醍醐天皇。

ついに政治の実権を天皇の元に戻すことに成功したんだけど、この天皇親政(天皇が政治の中心になること)は長くは続かなかった。

平たく言うと大失敗だった。

 

どうして大失敗に終わってしまったんだろう。

それは後醍醐天皇が天皇であった故だった。

後醍醐天皇が行った政治を建武の新政というんだけど、この政治は天皇や貴族中心の政治だった。後醍醐天皇が目指していたのは、平安時代、天皇親政の理想的時代といわれた醍醐・村上天皇の時代だ。

後醍醐天皇はこの醍醐天皇にものすごく憧れていて、自分が死んだ後につける忌名を醍醐天皇からとって「後醍醐」とするように指示したくらいなんだ。(天皇が存命中は「今上」天皇と言う。亡くなってから「後醍醐」天皇や「後鳥羽」天皇という忌名をつけて呼ぶ。)

後醍醐天皇は中央政権だけではなく地方も自分の支配が及ぶように、仕組みを変えていった。

でも、この改革は急すぎるし、いささか乱暴すぎてみんなになかなか受け入れてもらえなかった。関白や摂政をおかなかったから貴族の中からも反発を招いた。

でも、1番反感を持ったのは武士たちだ。

討幕で一番頑張った武士たちは恩賞を与えられたり、重要ポストにつけられたというわけではなく、なんと政治から遠ざけられてしまった。

討幕の最大の功労者である足利尊氏でさえも中央政権に組み込んでくれず、地方の多くの土地の地頭に任ぜられただけだったんだ。

そこでよく考えてほしい。

鎌倉幕府は武士による武士のための社会だった。

足利氏や新田氏が新しい棟梁となってほしいと思って討幕したんだよね。

つまり、武士は誰も天皇親政なんて望んでいなかった。

自分たちによって良い暮らしになると思って討幕したら、いきなり実権はとりあげられ、多くの武士は恩賞も与えられず冷たい扱いをうける。

これには武士もたまったもんじゃない。

不満がたまりにたまった武士は源氏の一族である足利尊氏に幕府を開いてほしいと思うようになった。

そんなとき、鎌倉で北条氏の残党が挙兵した。

その鎮圧のために自分を征夷大将軍として向かわせてほしいと尊氏は後醍醐天皇に頼むんだけど、後醍醐天皇はこれを拒否。自分の息子である親王を征夷大将軍として鎮圧に向かわせたんだ。

これに尊氏は激怒したのか呆れて見切りをつけたのか。

後醍醐天皇の許しを得ないまま鎌倉に軍を率いていき、北条氏の残党を蹴散らした後は自分がそこに居座り、後醍醐天皇に反抗した。

後醍醐天皇は当然、尊氏を討とうと兵を差し向けるんだけど、尊氏はそれを破りついに京に攻め入った。

そして後醍醐天皇を廃し、光明天皇という新しい天皇を即位させた。

そして自分は征夷大将軍に任命されて、室町幕府を開いたんだ。

一方、京を追い出された後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、そこで自分こそが正当な天皇であると宣言したんだ。

こうして朝廷は京都と吉野とに分かれ対立する「南北朝時代」へと突入したんだ。

足利義満と日明貿易

足利尊氏が初代将軍となり成功した室町幕府。

1番繁栄したのが3代将軍足利義満の時だ。義満は尊氏の孫だよ。

この人物はあのド派手な金閣を建てたことでも有名だね。

ではこの人物はどんな政治を行ったのか。

めちゃくちゃ有能で室町幕府歴代の将軍の中でもずば抜けて強大な権力を持っていたから偉業はたくさんあるんだけど、最も重要なのは南北朝の合一日明貿易だ。

 

まずは南北朝の合一についてだ。

後醍醐天皇が吉野に逃れたことから始まってしまったこの朝廷の二分化。

正式な天皇の証である三種の神器は南朝(吉野)にあったんだけど、京都(北朝)にも天皇がいるしどちらの天皇も正当さを主張しているというこの中途半端さ。

これはなんとかせねばならない事態なんだけど果たしてどうしたらよいやら。

そこでこの合一に乗り出したのが、義満だ。

義満の時代になると幕府も安定し、幕府に反抗的な武士も義満によって叩きのめされた。

また、朝廷方面でも積極的に介入し、めきめきと出世していって准三后(皇后・皇太后・太皇太后に次ぐ地位)という高い地位を授けられた。

まさに武家でも公家でも向かうところ敵なし!

 

無双状態となった義満は南北朝を合一するために南朝に和平案を出した。

主な条件は、三種の神器を「国譲り」という形で北朝に返すこと、皇位は南朝と北朝と交互につくことなどだ。内心はどうであれ、双方平等となるように統合しましょうというもの。

南朝は、こちらが負けたのではなく北朝に譲るという形をとるなら…ってOKを出した。

南朝もこの時は後醍醐天皇が生きていた時のような勢いはなく、絶大な権力の義満には逆らいたくないっていうのが本音。

そして、やっと南朝が三種の神器を持って京に帰ってきたんだ。

でもそこは義満。

三種の神器を「国譲り」の儀式ではなく、無くなっていた三種の神器が無事京へ帰ってきたことを示す儀式を行ったんだ。

これによって南朝のメンツ丸つぶれ。

自分たちは正当な皇位ではないと存在が否定されたことに等しいからね。

でも、今更義満や北朝と争う力はなく、南朝は北朝へと吸収され南北朝は合一されたんだ。

 

結局、義満に上手く言いくるめられたってわけだね。

こうして、南北朝の合一という大仕事を終えた義満。

朝廷からは太政大臣の位を授けられ(武士の中では平清盛に次いで2人目)、その強大な権力は膨れ上がるいっぽうだ。

 

そして次に成し遂げた偉業は中国との貿易だ。

この幕府と中国との貿易を日明貿易と言います。

当時の中国は元に代わって明という王朝になっていたんだ。

義満は博多の貿易商から「明との貿易は儲かりますよ。」と聞いたらしい。

義満はなんとかして明との貿易をしたいと思っていたが、初めは朝廷が南北朝に分かれていたことから明から断られてしまった。しかし、南北朝が統一され、義満が将軍を引退すると(でもしっかり実権は握ってます。)明から正式に交易することを許されたのだ。

 

ただし、建前上は「室町幕府が明王朝に朝貢する」ということになっていた。

「朝貢」とは中国に貢物をする代わりにその国の王と認めてもらうことだ。(古代の日本や遣隋使・遣唐使も一緒)明は属国が増えると世界に国力をアピールできるし、義満も属国ということになってもその利益が莫大な富をもたらすことを知っていた。win-winの関係だね。

そうして義満は明から日本の王と認めてもらい「日本国王源道義」という称号をもらった。(「源」→足利氏は源氏の一族、「道義」→義満の出家後の名前)

天皇を差し置いて、明から日本国王と認めてもらった義満。

なんと義満はいずれ天皇になろうとしていたんじゃないかという説まであるんだ。

まあこれだけ権力を持っていたらもう国のトップだよね。こうして遣唐使の廃止以来途絶えていた中国との国と国との公式な貿易が復活したんだ。(平清盛の日宋貿易は、個人同士の貿易)

 

でも、この日明貿易には1つ大きな問題があった。

それは海賊である倭寇の存在だ。

倭寇とは日本人や中国人、朝鮮人で構成されていて日本海を荒らしまくっていた海賊のこと。

明もこれに頭を悩ませており、幕府に倭寇を取り締まるよう要請してきた。

そして貿易船と倭寇の海賊船を見分けるために勘合を使用することにしたんだ。

勘合とは貿易の許可証で、木の札に字を書いてから真ん中で2つ割にされたものだ。

これを日本と明で片方ずつ持っていて、ピタッと合えば正式な貿易船であるとわかるというしくみ。割り符ともいうよ。

 

このように倭寇との区別で勘合が用いられたことからこの貿易を勘合貿易とも言われるんだ。

日本からは刀剣・銅・硫黄などが輸出され、明からは銅銭や絹織物・生糸などが輸入された。

この貿易は幕府に莫大な利益をもたらし(なんと元値の4~20倍は儲かった)、権力だけでなく巨万な富も手に入れた義満はかの有名な金ぴか金閣を建て、幕府も最も繁栄した時代になったんだ。

スポンサーリンク

民衆の成長と成長の土一揆

さて、この時代の出来事として政治以外で重要なことは民衆の成長だ。

農民たちは各村々で自治をするようになり、用水路の管理など村の自治について相談して決める場である寄合が開かれるようになった。

このような村をといいます。

そして惣では人々の決まり事である掟が定められるようになったんだ。今の自治会みたいなものだね。

こうして団結力を高めていった農民は、やがて年貢の取り立てが厳しい領主に対して集団で実力行使で抗議するようになった。これを一揆と言います。

また、農民の中でもより貧しい人や馬借と呼ばれる運送業者の人々など身分が低い人が起こした一揆を土一揆というんだ。

一揆の目的は徳政令を出してもらうこと。

徳政令は年貢を軽くしてもらったり、借金をチャラにしてもらえるんだ。(鎌倉時代でも御家人に対して徳政令を出していたよね)

一揆は室町時代の中期以降から近畿を中心に全国に広がっていった。

特に、近江の国で起きた正長の土一揆は1番初めに起きた土一揆なんだ。

 

当時は5代将軍が早死にし父の4代将軍が代わりに仕事をしていたけど、跡継ぎを決めずに死にかけているという政治的に不安定な時。

おまけに天候不順の凶作で農家の収入が激減し、とどめとばかりに三日病という流行病で多くの人が犠牲になり働き口が足りなくなっていた。

昔はこんな天災は国を治めているやつが悪いと思われていたから農民の不満も当然幕府に。

そんな中、、近江の国の馬借が借金の帳消し=徳政令を求めて立ち上がった。

それは京都や奈良など周辺の地域にも広まり、借用書を破り捨てる、質に出したものを取り返すなどもう大騒ぎに。

幕府も兵をあげて鎮圧しようとするけど武力での鎮圧はかなわず。

農民たちは幕府から徳政令はもらえなかったものの、借用書は破り捨てたし質に入れたものは帰ってきたしで上々の出来。

 

それになんてったって、あの寺社勢力のトップを誇り多くの荘園を持っている奈良の興福寺から徳政令をもぎ取ることに成功している。

農民の勝利は間違いないだろう。

朝廷や公家に対しては強い態度の興福寺もさすがに農民の団結した暴動には恐れをなしたんだね。

こうして日本で初めての農民の蜂起は農民たちの勝利で幕を下ろした。

そしてこれを皮切りに、全国各地で一揆が起るようになる。

山城の国で起こった山城国一揆、加賀で一向宗(浄土真宗)の信者が起こした加賀の一向一揆が大規模なものだよ。

幕府は一揆の鎮圧に翻弄され、幕府の力が弱まる原因となってしまうんだ。

応仁の乱~戦国時代の幕開け~

1467年に京都で大きな戦乱が起こった。

11年間続いたこの戦乱を応仁の乱という。

舞台となった京都は焼け野原と化してしまった。なぜこんな大規模な戦乱が起きてしまったのだろう。

結果的にはかなりこじれて敵味方が代わる代わるするややこしい争いになってしまったんだけど、そもそもの原因は至ってシンプル。

将軍家の跡目争いと幕府の重鎮である山名氏と細川氏との対立だったんだ。

 

時は8代将軍足利義政の時代。

義政は文化人として有名で、あの銀閣を建てた人物だ。

あれ?文化人?将軍なのに?と思った人もいるだろう。

義政はなんと政治が大嫌い。そして優柔不断だった。

いや、最初は3代義満のようになりたいとがんばっていたんだけど、義政を取り巻く人間関係が…。

そのせいで、8歳に将軍となってから十数年経ち20歳そこらになったとき、もう政治に嫌気がさしてしまって一刻も早く将軍職を降りたくなった。

そして、自分は大好きな文化の方で活躍したい。

どんどんどんどん政治から遠ざかり、時の天皇にも「もうちょっと真面目に政治しなさい」って怒られたほど。

 

室町時代の天皇はただのお飾りみたいなものだったから、それに怒られるって…。

そして将軍を降りるとしても義政には跡をつぐ男の子がいなかった。

困った義政は出家していた弟を無理やり還俗させ、「足利義視」と名乗らせて自分の後継者にしたんだ。

あーこれで丸く収まった…とはいかなかった。

 

なんと翌年、正室が跡継ぎの男の子を生んでしまった。

正室はなんとしても自分が産んだ子を将軍にしたい。この正室けっこう恐妻だったんだ。

義政も妻にはぎゃんぎゃん言われるし、自分もまあ跡継ぎできたんならそっちに継がせたいと思ってはいるんだけど、優柔不断な性格が災いして煮え切らない態度ではっきりしない。

そしてその頃、管領(将軍の補佐)家である畠山氏でも跡目争いが勃発して、これにも義政が優柔不断な対応をしてしまい火種勃発。

そこに便乗してきたのが、元々ライバル関係にあった山名宗全と細川勝元という守護大名だ。

守護大名とは、元々守護であったものがその領国の武士たちを家来として従えてだんだんと力をつけた者たちだよ。

 

結局はこの2人が表だって火花バチバチ。

それを見ていた義政の正室と幼い義尚(嫡男)が山名宗全に味方する。

で、対抗していた弟の義視が細川勝元に味方する。

あっというまに

西軍:山名宗全・正室・義尚

VS

東軍:細川勝元・義視

という構図が出来上がり、そこに西軍東軍それぞれに加担する守護大名たちも京都に集まってきて大規模な戦乱へとつながってしまったんだ。

この争いも京都だけにとどまらず、だんだんと守護大名たちの領地争いへと発展してしまった。

 

全国のあちこちで小競り合いが勃発し、自分の損得に合わせてあっちに味方したりこっちに寝返ったりと無茶苦茶なことに。

ついにはこの混乱に乗じて、守護大名の家臣の中には自分こそが新しいトップになってやろうとする考えのものも出てきた。この実力のある下の者が上の者に打ち勝つ風潮を下剋上と言います。

そして幕府にもこの乱を鎮める権威も残っていなかった。当事者である宗全や勝元が流行病で死に、将軍もいつの間にか嫡男の義尚が継ぐことに決まっても戦は終わらない。

みんな当初の目的は忘れて、ひたすら自分の領土を広げることしか考えていない。結局、誰が味方で誰が敵なのかはっきりしない状態でグダグダと11年も続いてしまったんだ。

乱の終わった後の京都は焼け野原。

多くの民衆も犠牲となり、人口激減。公家屋敷も歴史ある寺社仏閣もほとんどが燃えてしまった。

おまけに乱が終わった後も下剋上の風潮は下火になるどころかますます燃え上がり、全国あちこちで争いが起きていく。

こうして日本は戦国時代へと幕が開けたのでした。

室町時代の出来事まとめ!

重要な語句を下にまとめたよ。

  • 建武の新政…後醍醐天皇による政治。武士を冷遇したことにより武士の不満がたまる
  • 南北朝時代…吉野(南朝)と京都(北朝)と2つの朝廷が存在する
  • 室町幕府…1338年、足利尊氏が征夷大将軍となり京都に幕府を開く
  • 足利義満の政治…①南北朝の合一 ②日明貿易(勘合貿易)を始める
  • 日明貿易…倭寇と区別するために勘合を用いて行う
  • 倭寇…海賊
  • 惣…農民の自治組織
  • 一揆…借金の帳消しを要求
  • 正長の土一揆…京都を中心に起こる大規模な一揆。農民の勝利。
  • 応仁の乱…1467年におこった大規模な戦乱。将軍義政の跡継ぎ問題をめぐって細川氏と山名氏の対立。戦国時代の幕開け
  • 下剋上…実力のある下のものが上のものに打ち勝つ風潮

しっかり覚えて得点アップだ!

 

スポンサーリンク

数学が苦手な人には絶対おススメ!

ニガテな数学を基礎から見直しませんか??

無料で基礎問題&動画講義をお届け!

今なら高校入試で使える公式集をプレゼント

数スタのメルマガ講座を受講して、一緒に合格を勝ち取りましょう!


 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です