【武田信玄の年表】小学生にもわかるように簡単にまとめていくぞ!

「武田信玄」という名前は一度は耳にしたことがあるだろう。

戦国武将の中でも、人気・知名度ともにトップクラスのこの人物。その生涯に迫っていくよ!

武田信玄の生涯年表まとめ!

武田信玄は合戦の名人!

生涯で72戦49勝3敗20分と言われているよ。

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「甲斐の虎」と呼ばれた偉大なお館様

信玄は現在の山梨県にあたる甲斐の国を治める武田家の嫡男として生まれた。

なんと信玄が生まれたときは、お隣の今川家との戦まっただ中!

今まさに攻められていて、信玄は避難先の城で生まれたんだって。

 

まさしく戦国武将!って感じだよね。

武田氏は元々は源氏の出で名門。

でも、国内は荒れていて、信玄の父の代でやっと国内を統一したんだ。

国内を統一してからもさらに領土を広げようと戦いの日々の父。

でも、この父親は評判が悪く、その素行の悪さから近隣の武将はもちろん、家臣や自国の民からも嫌われていた。

 

そして信玄21歳の時

この父親を追放して自分が家督を継ぐというクーデターを起こした。

クーデターは成功し、武田のお館様となった信玄は、近隣の反抗的な武将をバッタバッタと蹴散らしたり、和睦を結んだりして領地を拡大していった。

 

また、家臣団から信頼を得て、まとめあげることに心を砕き、軍の統制をはかっていった。

家臣たちも自分の頑張りを正しく評価してくれるお館様に一生懸命尽くそうとし、また信玄の頭の良さや人柄を心の底から尊敬し信頼していた。

そんな武田軍は戦国最強の軍団へと成長し、信玄もまた甲斐・信濃を治める偉大な武将となり「甲斐の虎」と称されるようになったんだ。

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永遠のライバル~上杉謙信~

「甲斐の虎」に対して「越後の龍」と称される人物がいる。

越後を治める武将、上杉謙信だ。

この人物は信玄の永遠のライバルとして語り継がれている。

この2人が衝突した戦いは「川中島の戦い」といい、戦国ロマンの1つだ。

 

信玄率いる戦国最強の武田騎馬隊。

迎え撃つは謙信率いる戦いの神である毘沙門天の加護を受けた上杉軍。

北信濃の覇権をめぐって領地の境である川中島で激突すること5回。

およそ12年もの間に行われた長き戦いは、いずれも決着がつかなかったんだ。

 

特に4回目の戦いでは、信玄がキツツキ戦法と呼ばれる奇襲をかけようとしたところ、それを察知した謙信が逆に奇襲をしかけたり…

なんと!

信玄と謙信の一騎打ちがあった

という伝えがあるほど、両者とても激しくぶつかり合ったと言われているよ。

 

被害も大きく、両者ぼろぼろすぎて勝敗がわからなかったほど。

反対に最後の戦いであった5回目では、両者にらみ合い、これといったドンパチも無く終了。

これ以降は戦うことは無かったんだ。

 

しかも、これだけ死闘を繰り返した2人はお互いをライバルとして認め合っていたみたい。

武田家が今川氏からの報復で他国から塩を買えなくなったときに、謙信が塩を送ってあげたり、信玄が亡くなったときは

「私の生涯のライバルがいなくなってしまった。」

と涙を流して悲しみ、3日間家臣たちにも行楽を禁止し喪に服したそうだ。

 

信玄も死に際に

「何かあったら上杉謙信を頼れ。やつは信用できる。」

と遺言を残している。

刃を交えて友情が芽生えるってこれぞ戦国って感じだよね。

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武田信玄の名言

偉大な甲斐の虎として戦国最強の軍を率いた武田信玄。

この偉大なお館様は家臣団にも尊敬され、数々の名言を残している。

人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 敵は敵なり

いくら強固な城があっても、家臣の気持ちがないと意味はない。何よりも家臣からの信頼が第一である。

という信玄の思いが詰まった言葉だ。

信玄は家臣を信頼し、城をもたず居館に生涯住み、戦も相手の領地まで出てするというのがポリシーだったんだよ。

 

一生懸命だと知恵が出る 中途半端だと愚痴が出る いい加減だといいわけがでる

心に響く言葉だね。

この言葉を胸に刻みながら信玄は最強の軍団を作り上げたんだ。

そしてこんな名言を残した信玄の旗印はご存じの人も多いかもしれない。

「風林火山」

軍勢を動かすときには風のように早く

林のように悠然と敵に備え

攻撃するときは火のような勢いで攻め

動かない時は山のように動かない

 

戦国最強の武田軍の軍旗に記された文字を見て、敵は怯え、武田の家臣たちは偉大なお館様のために一生懸命奮闘したんだね。

うーん、やっぱりかっこいい!

偉大なお館様の死と武田家の滅亡

戦国最強の軍を率いた偉大なお館様も病魔には勝てなかった。

自分の病気の重さを知り死期を悟った信玄は、自分の死を他国には3年隠せと命令した。

自分の死の混乱の隙をつかれまいとしたんだね。

そのために、自分の印を記してある返信用の書状を800枚用意していたほど。

 

また、そのほかにも自分の死後、各地の戦国武将への対応を事細かく指示をして亡くなったんだ。

享年53歳。

偉大なお館様の死は武田家に暗い影を落とし、ついに戦国最強を誇った武田騎馬隊は長篠の戦いで織田信長によって撃破された。

その後、天目山の戦いにて武田氏も滅亡した。

信玄が死んでから9年後のできごとだった。

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まとめ!

戦国最強の軍団を率いた偉大な甲斐の虎。

その生き方や名言から戦国武将の中でも人気・実力ともにトップクラス。

もし、信玄があと5年生きていたら戦国時代の覇者は誰だったのだろう。

武田信玄は小説や映画・ドラマなどでもたくさん活躍しているから興味がある人はぜひ見てくださいね。

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