みんなは戦国武将といえば誰を思い浮かべるかな?
豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄などなど、戦国武将と言ってもたくさん有名な人物はいるよね。
その中でも知名度NO.1なこのお方!
織田信長!
第六天魔王と呼ばれ恐れられたこの人物。
果たしてどんな人物でどんなことをしたのか。その人物像に迫っていこう!
織田信長がしたことは?生涯年表まとめ!
信長は尾張を治める織田信秀の嫡男(跡取りの男の子)として生まれ、家督を継いでからは様々な戦いを制し領土を広げ、天下統一まであと一歩というところまで来た。
でも最後の最後で家臣の裏切りに合い自害してしまったんだ!
織田信長の人物像に迫ろう!
尾張の大うつけから桶狭間の戦いの覇者へ
天下統一を成し遂げる前で亡くなってしまった織田信長。
でも、この信長という人。
優秀な武将であると同時に実はとっても変わり者だったんだ。
特に若い頃は「大うつけ」=大バカ者と呼ばれめちゃくちゃな性格をしていたそう。
まげをきちんと結わず頭のてっぺんで束ねただけ、
袴をはかず着物と草履、
腰にはひょうたんをぶら下げて、悪友たちと城下で悪巧みして走り回っていたみたい。
中でもお気に入りだったのが女装!
男をひっかけ、からかう遊びだったみたい…
な、なんちゅういたずら。
これには父母、教育係のじいやも頭を悩ませていた。
でも、信長が18歳の時に父が死んでからは織田という家が信長の両肩にのしかかってきた。
(なんと信長は、父の葬儀で焼香の灰を父の位牌に向かって投げつけたそうな)
信長の教育係は、信長の性根をたたき直そうと命がけの説得と称して自害。
(ま、マジか…)
母はこんな信長を嫌い、弟に家督を継がせようとした。
でも、その母や弟の悪巧みを信長はいち早く察知し、先手を打って弟を殺害。
父・教育係の相次いでの死により何か思うところがあったのか、
はたまた元から備わっていた才能ゆえなのか、
それ以降、信長はメキメキと頭角を現していった。
そして、歴史に名高い桶狭間の戦い。
相手は織田よりもだいぶ格上の今川義元。
その軍なんと2万5千から4万5千。
対する織田勢は多くても5千程度。
普通に考えて絶対負けるよね。
でも、信長はこの戦いに勝った。
その勝因は、大粒の雨が降って視界が悪い中、織田軍が今川軍の本陣へ奇襲をかけたことと言われているよ。
焦らず冷静に戦局を見極める判断力。
正確に敵の本陣の場所を探る洞察力。
そして、自分より格上の相手に恐れずに挑む胆の座りっぷり。
自分の有能っぷりを全国の戦国大名に見せつけるという華々しい天下取りデビューを果たした信長は、この戦い以降どんどんと領土を広げていくんだ。
もう誰も「尾張の大うつけ」なんて呼ばなくなったよ。
古い戦法をやっつけろ!騎馬隊VS鉄砲~長篠の戦い~
信長は新しいもの好きな性格で有名だ。
当時の日本は外国との貿易がさかんで外国からいろんな文化が入ってきた。
信長はそんな新しい文化が大好き。
だから、信長はどんどんと外国の新しい文化を取り入れていった。
普段、着ている服から
合戦のときに使用する甲冑まで
当時の日本では見慣れていなかった外国産のモノを使用していたみたい。
机、イスといった家具、他には食器もガラスや銀製にしたりと
外国の良さをどんどんと取り入れたのでした。
信長の新しいものを取り入れるという姿勢は生活のみならず、合戦の戦法にまで活かされたんだ。
それがこの長篠の戦い。
武田勝頼率いる武田軍と織田・徳川連合軍との戦いだ。
武田勝頼とはあの武田信玄の息子だ。
信玄亡きあと、武田軍を率いていたんだよ。
この武田軍は昔から騎馬隊で有名で、馬に乗った武将たちが敵陣に突進してくる。
その姿は非常に勇猛果敢。
「最強」と他の武将たちに恐れられ、徳川軍も一時は撤退を余儀なくされたこともあるほど。
しかし、信長は武田の最強騎馬隊に対し、
当時まだ珍しかった鉄砲を3000丁用いることで対抗したんだ。
戦法はこうだ。
騎馬隊の突進を柵でおさえ、その隙に鉄砲で撃つ。
でも鉄砲は連続で撃てず、1回1回弾を入れ直さなくてはならない。
信長はこの欠点を補うために撃つ人を3列に並べ、最前列の人が1回撃ったら最後尾へと回り弾を込め、その間に次の列の人が撃つという「3段撃ち」という戦法を編み出した。
この結果、武田の騎馬隊はあっという間に壊滅状態になり、たったの8時間で勝敗を決してしまったんだ。
もちろん織田軍の勝利だ。
この合戦は初めて鉄砲を使用した戦いとして現代まで伝わっている。
この戦い以降、邪魔だった武田氏の力は弱まりやがて滅亡した。
信長の天下人としての地位は確実なものとなったんだ。
合戦だけじゃない。経済にも強い信長!
信長の優秀さは合戦だけじゃなく、
領土を治めるための政治的手腕にも注目したい。
その政策は「楽市楽座」と呼ばれ、
簡単に言うと、誰でも簡単に商業をできる環境を整えたんだ。
関所(国の国境)をこえるときの税を廃止したり、座と呼ばれる商業の同業者組合を禁止したりとね。
これにより信長の治める国では商業が活発化して、国も潤ってきたんだ。
天下目前で家臣の裏切り~本能寺の変~
信長の性格を1文字で表すと「烈」という漢字が挙げられるだろう。
信長は家族や家臣や領民を大事にする一方、自分に刃向うものには容赦なかった。
比叡山延暦寺の焼打ちなど、その非情な性格を揶揄して「第六天魔王」や「天魔」などと呼ばれた。
そして、この性格と段々ソリが合わなくなった家臣がいた。
その名も明智光秀。
光秀によって信長の天下統一への道は終わりを告げる。
この光秀、信長と比べると性格は正反対。
信長が「烈」なら光秀は「静」。
光秀は、初め足利将軍家に仕えていたのだが、信長の家臣となってからは忠実に信長に仕え働きも上々。
信長も光秀の実力を認め重宝していた。
なのになぜ、光秀は信長に謀反(=家臣が裏切ること)起こしてしまったのか。
実は、その理由についてはいろいろと諸説があって
まだよくわかっていないんだ。
オレ様な態度でむちゃくちゃする信長に光秀がキレた(信長パワハラ説)
元々、光秀は天下を狙っていた(光秀の野望説)
はたまた、後に天下を取る豊臣秀吉と裏でつながっていたとも(ブラック秀吉説)
いろんな説があるけど、どれも確固たる証拠が無いんだ。
理由はさておき、本能寺の変はどのようにして起こったのか。
光秀は、信長の命令で中国地方の毛利氏を討ちに出発していた。
しかし、途中で進路を京都の本能寺へと変更し宣言した。
「敵は本能寺にあり」
本能寺には100人程度のお付きしか連れていない信長が宿泊していた。
寝込みを襲われた信長は、光秀の軍勢およそ1万3千人が本能寺を包囲していることを知ると
「ぜひもなし」(=しょうがないね)と言って寺に火を放ち自害。
「尾張の大うつけ」から「天下人」へと大どんでん返しな波乱万丈の人生の幕をおろしました。
享年49歳。
天下統一目前でのこの悲劇。
でも、この信長という人物の死はこれぐらいのインパクトがあってしかりなのでしょうか。
そして信長の死後、天下は家臣である豊臣秀吉のものとなるのでした。
まとめ
いかがだったでしょうか。
織田信長の生涯年表と主な出来事について紹介したよ。
「大うつけ」と呼ばれた少年が天下人となるというドラマティックな生涯を歩んだ織田信長。
偉業やエピソードは、ここに書ききれなかったものがまだまだたくさんあるよ。
現在でも織田信長を題材にした漫画や小説や映画などは数多く、信長という人物を知れば知るほどその魅力のとりこになってしまうのかもしれないね。
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