【中学歴史】鎌倉幕府の滅亡と原因をわかりやすく解説!

武士のために武士によって作られた鎌倉幕府。

しかし、この幕府にも陰りがみえてくる。

この記事ではなぜ鎌倉幕府が滅亡したのか詳しく解説していくよ。

幕府滅亡の原因その1~元寇~

元寇とは、中国の王朝である元という国が2度にわたって日本を攻めたことをいいます。

「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」ともいわれれいます。

 

これによって、鎌倉幕府が弱体化していくことになるんだけど

そもそも日本に2度も攻めてきた元とは、どんな国なのでしょうか。

元とはどんな国?

元は中国の王朝なんだけど、実は漢民族(中国人)ではないんだ。

「蒙古」=モンゴルのことで、モンゴルの遊牧民族が中国を攻め滅ぼして元という国を興したんだ。

 

中国は長年、モンゴル人の襲来におびえていました。

あの有名な万里の長城も遊牧民が攻めてこないように作られたものなんだ。

しかし、ついにチンギス=ハンという人がモンゴルを統一し、そのまま勢いに乗って中国も征服したんだ。

 

その勢いはとどまることを知らず、中央アジア・イラン・東ヨーロッパなど次々に征服し、巨大な領土を持つモンゴル帝国を築いたんだ。

そして、5代目皇帝フビライ=ハンの時に最も栄え、領土もユーラシア大陸の大部分までに拡大し、国名を中国風に「元」と改め初代皇帝になったんだ。

なんで日本を攻めたの?

この広大な領土を誇る元が次に目をつけたのが、島国日本だ。

 

マルコ=ポーロという人が書いた「東方見聞録」という書物の中で当時の日本は「金がたくさん取れる黄金の国だ」と紹介されていたんだ。

フビライは日本のその豊かな富を手に入れ、元という国の強さをもっともっと他の国にアピールしたかったんだ。

 

中国の前の王朝である南宋が当時まだわずかな勢力になりながらも、モンゴルに対抗していたんだ。

フビライは早くこれにトドメをさしたかったんだけど、これがまたなかなかしぶとくて…。

そんなとき、元の属国となった朝鮮の王朝である高麗から「先に日本を攻略すれば南宋も楽に落とせるかも…。」ってアドバイスされたんだ。

そんな理由もあってフビライは日本に侵略することを決めたんだ。

元寇はどんな戦いだったの?

元は進行する前に日本へ国書をたびたび送ってきた。

「元は今とっても強い国だよ。隣の高麗も服属したよ。日本も元に服属しないと兵で攻め込むぞ」

もう脅迫だよね。

 

時の執権北条時宗はこの非常識な国書を無視し続けた。

すると業を煮やした元は1274年、3万の兵を率いて博多に上陸しついに戦争となった。

この1回目の元の襲来を文永の役といいます。

九州の御家人の軍は大苦戦。

 

日本の戦いでは、先に「我こそは~」と自分の名を名乗ってからという決まりがあった。

でも、元はそんなのないから

御家人たちが名乗りを上げている間にもちろん攻撃してくるよね。

 

 

さらに、日本では一対一で戦うというのが基本スタイルでした。

これに対して、元は集団で襲い掛かる。

 

また、元はてつはうと呼ばれる武器を用いていたんだけど、御家人はそんなの見るの初めて。

その爆音で人も馬もビビりまくり。

引用:wikipedia

これは当時の戦いの様子を描いたものなんだけど、戦いの壮絶さが伝わってきますね。

 

 

日本の国内でしか戦経験が無い御家人のと、支配をユーラシア大陸の大部分まで占める元とはその差は歴然。

御家人たちの健闘むなしく、博多は火の海となり、一般人は殺されたり捕虜になったりむごい有様だったよう。

 

このまま元に支配されてしまうのか。

 

そう思いながら夜を過ごした御家人たちは翌朝、信じられない光景を見た。

あんなにたくさんいた元の船が一隻も見当たらない。

一説によると暴風雨が吹いて多くの元軍が沈んだとある。

 

これを日本は「神風」と呼んだんだ。

 

さて、自然の力を借りながらもなんとか元軍から日本を守った御家人たち。

命がけの御恩をしたんだからそれ相応の奉公があるはず。

でも御家人に与えられたのは狭い土地ばかり。

それどころか恩賞がなかった御家人さえいた。

 

でも幕府だって困っていた。

与える土地がないんだ!!

今までは倒した相手から土地を奪い、恩賞として与えていたんだけど…

今回の戦いでは、敵を追い払っただけだから奪いとった土地がないんだ。

 

でも御家人は納得できない。

あんなにがんばったのに…。

幕府に不満を募らせながら、次の元襲来に備えて準備を進めます。

 

そしてついに1281年、もう一度元襲来!

この2回目の襲来を弘安の役という。

しかも次は14万の大軍!対する御家人は鎌倉から来たのも合わせて6万5千人。

 

なんとか九州で食い止めようと奮闘する御家人。

前回の反省を活かし、こちらもゲリラ戦で対抗する御家人たち。

でも力の差は歴然、今回こそやられてしまうのか…。

 

するとそこへまた来た神風!

なんと元は台風に直撃され壊滅状態となり、戦意喪失した軍は日本から撤退していった。

こうして元寇は日本側の勝利に終わったのです。

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幕府滅亡の原因その2~御家人の貧困と永仁の徳政令~

2度の元の襲来を乗り越えた幕府だけど、今回もやっぱり土地がない。

領地がもらえない御家人たちの生活は苦しくなるばかり…。

元の襲来でかかった費用(食費や武器代)は全部自分持ちだからね。

 

そして御家人たちの生活が貧しくなったのはもう1つ理由がある。

それは武士の分割相続だ。

分割相続とは、自分が所有する土地を子供たちに分割して相続させるというもの。

でもそんなことを代々進めていくとどうなると思う?

1人あたりの相続する土地がだんだんと少なくなってくるよね。

 

まだ幕府が作られて間もないころは、国内に敵がたくさんいた。

そして、その敵の土地を御恩として幕府から新しく与えられたことでまかなっていくんだけど、幕府の支配が全国に及ぶとそれも難しくなっていった。

そんな時に元寇というトドメだ。

 

元寇はモンゴル兵を追い払っただけで、幕府が手に入れた新しい土地なんてなかったからね。

では、御家人たちはどうしたのか。

自分の土地を担保としたり売り払ったりしてお金を借り、生活の足しにしていたんだ。

このころは貨幣(お金)が全国に流通しており、経済の中心は物々交換から貨幣をつかって売買するという方法に代わっていたんだ。これも御家人の生活を苦しめた原因の1つだ。

もちろん、幕府も御家人の生活を救おうと必死で考えた。

御家人たちの不満が幕府にむかっていたのも気づいていたからね。

 

このままでは幕府の存続も怪しくなってしまう…。

そこで出したのが永仁の徳政令だ。

徳政令っていうは簡単に言うと借金を帳消しにするっていう法令だよ。

御家人たちは生活のために土地を売り払ったり、土地を担保にお金を借りたりしていたんだ。この徳政令は御家人が売った土地を無条件で取り返せる、新たに土地を売ることは禁止、金融業者の訴えは一切聞き入れないというもの。

御家人には優しく、金融業者には厳しいこの法令。うまく御家人を救済することが出来たのか。

 

結果は大失敗。

 

土地が戻ってきたはきたけど、元々マイナスだったのが0になっただけだし、今までのように土地を担保にお金が借りれなくなった。しかも金融業者だって自分たちが損するだけなのにお金なんて貸したくないよね。

結局、経済は大混乱。

御家人、ますます困窮。幕府もしまったと思ったんだろうね。

翌年、土地を無条件で取り返せるという項目だけを残して、他の項目は廃止したんだ。

永仁の徳政令は大失敗に終わった幕府。

御家人の不満はたまる一方で、だんだんと滅亡へと向かっていくのでした。

ついに鎌倉幕府滅亡へ~御家人たちの反乱と後醍醐天皇~

こうして幕府と御家人たちの関係が悪化していくと各地で悪党と呼ばれる人々が目立ってきた。

悪党は幕府に従わず地元の農民たちを率いて荘園領主の年貢を奪ったり土地を奪ったりしていたんだ。

幕府の初期にも悪党たちはいたんだけど、幕府はそんなに問題視しておらず放置していた。

 

でも永仁の徳政令の失敗のあと、御家人の中からも悪党になる人が出てきて幕府も無視できなくなってきた。幕府の力が弱まっていた証拠だね。

こうして幕府が悪党たちの対応に追われ、バタバタと混乱していたとき…。

その混乱に乗じて幕府を滅ぼそうと計画した男がいた。

その名も後醍醐天皇

長年、幕府によって煮え湯を飲まされてきた朝廷。その権力を再び我が手に戻さんと立ち上がったんだ。

しかし、この討幕計画はあっさり幕府側の朝廷監視機関である六波羅探題にバレてしまう。

でも、また懲りずに2回目の討幕計画をたてる後醍醐天皇。挙兵するもまたもや失敗し、今度は隠岐に配流となってしまった。

万事休すと思っていたところに1人奮闘していた人物がいた。

名は楠木正成

この人はなんと悪党だったが、後醍醐天皇の挙兵に合わせて挙兵し、後醍醐天皇が隠岐に流された後も、知略を持って幕府軍を翻弄し、幕府軍の力を弱めることに成功した。

 

この幕府軍の度重なる敗戦があっという間に全国に広まり、後醍醐天皇も隠岐から脱出することに成功。3回目の討幕を掲げたんだ。

その3回目の挙兵に応えたのが、足利尊氏

足利氏は元々は源氏の一族で、御家人の中では名家の1つだ。

尊氏は初めは幕府の命令通り、討幕軍と戦ってたんだけど、心は幕府から離れていた。

そして3回目に後醍醐天皇が討幕の命令を出した時に早々に幕府を見限って討幕軍に寝返ったんだ。そして討幕軍をまとめ上げ、六波羅探題を攻め滅ぼしたんだよ。

この働きで醍醐天皇は足利尊氏のことをいたく気に入り、自分の諱(尊治親王)から「尊」の字を授け「尊氏」と名乗らせたんだよ。(最初は「足利高氏」だったんだ。)

 

そして、これと時を同じくして鎌倉では、これまた元は源氏の一族で有力御家人だった新田義貞が挙兵した。足利氏と新田氏は元をたどると同じ源氏の一族で初代同士が兄弟だったんだ。

挙兵した新田義貞は一気に鎌倉に攻め込み、幕府本体を滅ぼすことに成功した。

鎌倉幕府は、有力御家人であり元々は源氏の一族だった者の手によって滅ぼされたんだ。

なかなか皮肉だよね。ここに武士政権の基礎を築いた鎌倉幕府は滅亡したのでした。

鎌倉幕府の滅亡まとめ!

重要語句を下にまとめたよ。

  • 元寇
  • 永仁の徳政令
  • 討幕

1333年 鎌倉幕府滅亡…後醍醐天皇が討幕計画。足利尊氏が活躍。

しっかり覚えて得点アップだ!

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