794年、桓武天皇の御世に都は現在の京都府に造られた平安京へと遷された。
「鳴くよ(なくよ=794)ウグイス平安京」でも有名なこの時代、どんな出来事があったのか詳しく解説していくよ。
平安時代の主な出来事年表
- 797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される
- 894年 遣唐使を廃止する
- 1016年 藤原道長が摂政となる(摂関政治の全盛期)
- 1086年 院政が始まる(白河上皇)
- 1156年 保元の乱
- 1159年 平治の乱
- 1167年 平清盛が太政大臣となる
- 日宋貿易が行われる
- 1180年 源平の争乱
この記事では、摂関政治までの出来事について詳しく解説していくよ。
桓武天皇の政治と平安京
794年、桓武天皇は都を奈良県の平城京から京都府の平安京に遷しました。
なぜ、わざわざ都を平安京に遷したのか?
それは奈良時代の政治と関係があるんだ。
奈良時代、仏教を手厚く保護し、仏の力で国を治めようとしていたよね。仏教は政治と文化の中心となり数多くの寺院も誕生した。そして、だんだんと寺院が権力を持つようになってきて、なんと政治に口出しする僧まで現れたんだ。
こうなると天皇が思ったように政治を行うのが難しくなってきた。そこで桓武天皇は寺院の勢力が及ばない京都に新しい都を造り遷都したんだ。奈良から平安京に寺院を移転させることを禁止した上でね。平安京も長安の都を参考にしていて、明治時代に東京に都が遷るまでずーっと日本の都として在り続けたんだよ。
さらに、桓武天皇は東北地方にも支配を広げようとしました。
当時、東北地方には蝦夷(えみし)と呼ばれる人々が住んでいて、度々朝廷に対して反乱を起こしていたんだ。
そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷をやっつけようとした。
鎌倉時代や江戸時代など、征夷大将軍に任命された人物が幕府を開いたりしているけど、元々征夷大将軍とは、蝦夷を征討するための軍の大将軍という役職なんだ。
そして、坂上田村麻呂は見事蝦夷との争いに勝利した。
蝦夷の族長だったアテルイという人物は都に送られ、処刑されることになりました。
このとき、坂上田村麻呂はアテルイの助命を頼んだんだけど、貴族たちが許さなかったんだ。(このアテルイの石碑は京都の清水寺にあるよ。)
こうして蝦夷を平定した桓武天皇は、戦いの砦として築かれた胆沢城などを拠点として東北支配を強めていったんだ。
遣唐使の廃止と菅原道真
平安時代に起こった重要な出来事として遣唐使の廃止があるよ。
894年に起こったこのできごと。「白紙(はくし=894)に戻そう遣唐使」というフレーズで覚えよう。
なぜ遣唐使が廃止されることになったのか。主な理由は次の2つだ。
遣唐使廃止の理由
- 当時の中国は内乱が続いていて情勢が不安定
- 中国に行くのは命がけ。わざわざ優秀な人物を死なせたくない。
奈良時代には頻繁に派遣されていた遣唐使。
でも、平安時代になるとその数は激減。半世紀の間派遣されないなんてこともあったんだ。
唐は内乱が続いて国内は荒れ放題。遣唐使を受け入れている場合じゃない。そもそも奈良時代は命を危険にさらしてまで唐に優れた文化を学びに行く必要があったけど、平安時代はそこまで唐を必要としていなかった。
奈良時代は都やお金、法律まで唐にならって作られていた。唐のように立派な国にして国外にもそれをアピールする必要があった。でも平安時代にはそれらは全て整ったし、唐から持ち帰った文化も日本の昔からの文化と溶け込んで新たな文化(=国風文化)が芽生えつつある。
うん、遣唐使いらない!
という考えはある人物によって提案され、遣唐使の廃止へとつながったんだ。
その人物の名は菅原道真。
福岡県にある太宰府天満宮に祀られていて、学問の神として信仰されているこのお方。
元々は学者で、小さい頃は神童と呼ばれるほど優秀だった。学問だけではなく政治的手腕にも優れ、宇多天皇から厚い信任を受けて出世した。そして宇多天皇から遣唐使を命じられたときに、遣唐使の廃止を提案しそれが受け入れ、これ以降2度と遣唐使が派遣されなくなったんだ。
遣唐使の廃止に一躍かった菅原道真。
右大臣まで上り詰めたんだけど、その優秀さを恐れた藤原氏の陰謀によって、九州の大宰府へと左遷され、そこで失意のまま亡くなってしまう。
でも道真の死後、都では恐ろしい疫病が流行り多くの人が死にました。
道真を左遷に追い込んだ藤原氏の面々も命を落とした。他にも、皇太子の死や落雷が相次ぎ、これらは道真のたたりではないかとうわさが広まったんだ。
そして、道真の怨霊を鎮めるために神社を建て、神として祀ることにしたんだ。こうして道真は学問の神として人々から厚く信仰されるようになったんだよ。
藤原氏の摂関政治
平安時代の政治として重要なのがこの摂関政治。
藤原氏が行った政治なんだけど、藤原氏はどんな一族なのか。
遡ること飛鳥時代。大化の改新という、蘇我氏を倒し大規模な政治改革を行った中大兄皇子(天智天皇)。その片腕となって活躍した中臣鎌足。この中臣鎌足が天智天皇から藤原の姓を賜ったんだったね。
【参考記事】
そう、藤原氏とは中臣鎌足の子孫なんだ。
藤原氏は奈良時代になると、天皇の外戚(母方の親族)や一族から臣下初の皇后を出したりと権力を強めていったんだけど、平安時代になり、権力の全盛期を迎えたんだ。
藤原氏が栄華を極めたのは摂関政治を行ったからなんだけど、果たしてどんな政治だったのか。
その秘密は当時の結婚制度にある。当時は夫1人に妻多数という一夫多妻制が普通だったんだ。
特に天皇家はその血筋を絶やさないためにも、多くの妻を娶り子を残さねばならない。そこで貴族たちはこぞって自分の娘を天皇の妃としたんだ。そうして生まれた子が次の天皇になったら自分は天皇のおじいちゃんになるってわけ。
藤原氏はこういった立場を利用して
天皇が小さいときは摂政、成人すると関白となって天皇に代わって自ら政治を行ったんだ。
この政治のことを役職である摂政・関白からとって摂関政治といいます。
昔から摂政という役職はあったんだけど、皇族しかなれなかったんだ。(推古天皇の摂政=厩戸皇子)
でも、平安時代初期に藤原良房が臣下で初めて摂政となり、その義理の息子基経が初めて関白となってからは代々、藤原氏が独占することになる。また、藤原氏が菅原道真のような政敵を左遷に追い込むことができたのも、自分の娘が生んだ子が天皇や皇太子となっていたからなんだよ。
なんと醍醐天皇から170年間は藤原氏が生んだ皇子だけが天皇となったんだ。もちろん、皇子の中には藤原氏の血をひいていない皇子もいるし、天皇だって自分の希望する皇子に皇位を譲りたかった。でも、摂関政治において藤原氏の権力は増すばかり。天皇とは名ばかりのお飾りになってしまったんだね。
藤原氏の邪魔になった天皇はいろいろ理由をつけて退位においこまれてしまったこともあったほどなんだ。摂政・関白は藤原氏が独占していたんだけど、その地位をめぐって同じ一族同士で権力争いが起こったんだ。兄弟だったり、叔父・甥だったり。
そんな熾烈な権力争いを制し、藤原氏の全盛期を築いた人物がいる。
藤原道長だ!
藤原道長は関白の父の3男坊(正妻が産んだ3番目)だったんだけど、父の死後、後を継いだ兄2人が相次いで死んでしまう。優秀で豪胆な性格だった道長は一番上の兄の息子との激しい権力争い(叔父・甥の争い)に、時の天皇の生母が自分の同母姉であったことも後押しとなり、見事勝利した。
そして、自分の娘を次々と3代の天皇の皇后とし、生まれた皇子がまた次々と天皇となったんだ。3代にわたって天皇の祖父であり続けたんだよ。また、一家立三皇后を成し遂げたんだ。
一家立三皇后とは、道長が生きている間に、自分の娘を3人も皇后にしたことなんだ。
具体的にいうと、
- 66代一条天皇→藤原彰子
- 67代三条天皇→藤原妍子
- 68代後一条天皇→藤原威子
68代後一条天皇の在位中、彰子は太皇太后(前々代の皇后)、妍子は皇太后、威子は皇后という状態だったんだ。(ちなみに後一条天皇は彰子が生んだ天皇だよ。)
まさにこの状態を一家立三皇后というんだけど、もう道長の絶頂期。
向かうところ敵なし。歴代の藤原氏の権力者たちの中でもさすがにここまで権力を掌握した人物はいなかった。そして一家立三皇后のお祝いパーティーの時に、道長はこんな歌を詠む。
この世をば わが世とぞ思ふ
望月の欠けたることもなしと思へば
現代語訳すると
この世は自分(道長)のためにあるようなものだ あの満月(=望月)のように一片も手に入れていない物はない。
天皇をもしのぎ、政治をほしいままにあやつる時の権力者が詠んだにふさわしい自信満々の歌。
こうして摂関政治で強大な権力を得ることに成功した藤原氏は、この道長とその息子である頼通の時に1番栄華を誇ったのでした。
平安時代の出来事(摂関政治)まとめ!
重要なキーワードをまとめたよ。
○桓武天皇=平安京に都を遷す=鳴くよ(894年)ウグイス平安京
○最初の征夷大将軍=坂上田村麻呂
○遣唐使の廃止=菅原道真=白紙(894年)に戻そう遣唐使
○摂関政治=自分の娘を天皇の妃とし、生まれた子を次の天皇とし、自分は摂政・関白として政治を行うこと=藤原道長
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