米作りが人々の生活の中心となり、
100余りの小国に分裂していた弥生時代が終わってから古墳時代を迎えることとなる。
なぜ、古墳時代と言われているんだろう。
そもそも古墳て何?
どんな暮らしをしていたの?
埴輪ってこの時代?
その疑問、この記事ですべて解説していくよ!
古墳時代はいつから?なぜそんな名前?
古墳時代は3世紀半ばから7世紀までの約400年間続きました。
なぜそんな名前がついたんだろう。
それはこの時代に作られたあるものと深く関係があるんだよ。
それはズバリ、お墓だ!
弥生時代にあった邪馬台国のことは覚えているかな?
女王卑弥呼が死んだときそれはそれは大きなお墓が作られたんだったよね。
それからだんだんと発展していき、古墳時代には国の有力者=豪族のために様々な種類のお墓が作られたんだ。
お墓と言っても、今みたいな石でできたものではなくて、土を高く盛り上げた丘のようなものだったんだ。
これを「墳丘」といったことから、このお墓のことを「古墳」というようになり、その古墳がたくさん作られた時代を古墳時代と呼ばれるようになったんだ。
古墳の特徴の変化から、この時代を前期・中期・後期の3つにわけているよ。
古墳時代の人々の暮らし~服装~
弥生時代から徐々に身分階級の差が出来てきたんだけど、古墳時代ではよりはっきりと区別されるようになったんだ。
身分が高い人は豪族(ごうぞく)と呼ばれていました。この豪族のファッションについてお話します。
スサノオノミコトやアマテラスオオミカミといった日本神話に登場する神々の姿を見たことがあるかな?
ゆったりとした服を着て、左右の耳の横で髪を輪にしてその真ん中かちょっと下を紐でくくったヘアスタイル。
あの独特なファッションはこの時代の流行の最先端なんだ。
男性と女性で分けて詳しく見てみよう。
《男性》
ヘアスタイル | 「みずら」=長く伸ばした髪をセンターで分け、左右の耳の横で輪にして真ん中かその下を紐で結んだもの。 |
服 | 「きぬはかま」=上下に分かれたゆったりとした服。腰帯を締め、手首やひざ下などを紐で結んでいる。 |
アクセサリー | 金でできたイヤリングや翡翠、勾玉などでできたネックレス。より身分の高い人は金の冠をつけたりとより豪華になる。 |
《女性》
ヘアスタイル | 「すべしもとどり」「すべらかし」=長く伸ばした髪をセンターわけして垂らしたもの。鉢巻を結ぶことも。 |
服 | 「きぬも」=上下にわかれたゆったりした服。「きぬ」が上着、「も」が下にはく巻きスカート。身分が高いほど長い。二重にはくすることもある。
「ひれ」=身分の高い女性が肩にかける布。天女の羽衣や七夕の織姫様の姿を思い浮かべてみよう。 |
アクセサリー | 金でできたイヤリングや翡翠、勾玉などでできたネックレス。より身分の高い人は金の冠をつけたりとより豪華になる。 |
古墳時代の人は身分の違いが服装やアクセサリーに表れていたんだよ。
特に女の人は宝石を飾ったり、花を飾ったりとおしゃれ大好き!
昔から女の人は変わらないね(笑)。
また鉄の普及により、戦いが過激化して甲冑を身に着けるようになったんだ。
甲冑には一枚の鉄で体を覆う(=イメージは剣道の防具)短甲と、たくさんの鉄片をひもでつないだ(=イメージは戦国武将の鎧)挂甲とがあった。
身分の高い人は動きやすい挂甲をつけていたよ。
古墳時代の暮らし~家~
住居でも豪族と庶民との違いがはっきりされたんだ。
豪族は家の周りを溝で囲った(=環濠)巨大な館に住んでいたんだよ。
政治を行う場所と日常生活をおくる場所とはわかれていたんだって。
庶民は引き続き、竪穴住居や高床倉庫、竪穴を掘らず地面を床とした平地住居を集合させて1つの集落を作って暮らしていたんだよ。
5世紀にはいると、竪穴住居の奥にカマドが作られたんだ。
今でいう台所だね。
このカマドの誕生により、今まで炊くだけだった調理方法に蒸す方法が加わり、調理のレパートリーがぐんと広がったんだ。
古墳時代の暮らし~土師器と須恵器~
2つの土器が使用されたんだけど、作られ方や用途が違ったんだよ。
まずは土師器(はじき)。
これは弥生土器が発展したもので、800度の熱で焼かれるため色は赤色。
主にお皿や鍋として日常生活で使用されたんだ。
それに対して須恵器(すえき)は朝鮮半島から伝わったもの。
現在の陶器と同じように、ろくろを使って形が作られる。
登り窯で1000度の高熱で焼かれるため色は黒色。
主にお供え物などを入れるお皿や壺といて祭りのときに使用されたんだよ。
このほかにも塩を作る土器もあったんだ。こんな古くから塩が作られていたんだね。
朝鮮半島から伝わった技術については、後の「渡来人」のところで解説するよ。
古墳時代の暮らし~信仰~
稲作が定着し、農耕が生活の中心となったことから、農耕に関する祭りがおこなわれていました。
春にはその年の豊作を願う祈年祭り、秋には豊作を感謝してとれた米を神にささげる新嘗祭があります。
現在でも秋祭りはあるよね。
また、呪術的な風習もまだ盛んで、穴をあけた動物の骨を焼いて吉を占う太占という占いや、盟神探湯という熱湯に手を入れてただれなかったら無罪、ただれたら有罪という裁判方法もあったんだ。
果たして無罪の人はいたんだろうか…(笑)
自分の身についた汚れを清めて災いから逃れる禊や祓という風習もあった。これは現在の神社や祭りでも続いてるよ。
古墳時代の墓~種類~
この時代の名前のもとになったお墓。
基本的には土を高く小高い丘になるまで盛り上げていったものなんだけど、いろんな形があったんだ。
代表的な次の4つの形を覚えておこう。
①前方後円墳
1番ポピュラーなこの形。
名前の通り、前が円くて後ろが四角い形が合体したものだ。
鍵穴にも似ているね。
これは当時1番権力を持った王様(=日本を統一した大和政権の大王)にのみ許された形なんだ。大阪府にある大仙古墳(=仁徳天皇陵)はなんと世界最大級のお墓と言われているよ。
②円墳
その名の通り、土を丸く盛り上げた形。
古墳時代で最も多く作られた形で、前期ではポツンと単体で作られていたんだけど、後期ごろには、小さなものが集まっている群集墳と呼ばれる形になっていったんだ。
③方墳
上から見ると長方形に見える形。
円墳に続いて2番目に多いんだ。
④前方後方墳
前も四角、後ろも四角なこの形。
一説には大和政権と対立していた王の墓とも。
古墳時代の墓~石室とは~
古墳は土を盛り上げて作られているけど、その中に遺体を保管する部屋が作られたんだ。
この場所は土ではなく、石で作られていたので石室といいます。
前期・中期の石室は竪穴式石室といって、古墳で一番高いところに作られていたんだ。円墳・方墳ならその真ん中に、前方後円墳なら後ろの円墳の真ん中にあるよ。
構造は、遺体を納めた木管(今でいう棺桶)をあらかじめ敷いていた粘土や砂利の上におき、周りに石を積み壁をつくり、大きな石で天井をふさいだんだ。
一度ふたをすると2度ととあけることができないため、一人だけのお墓だったんだね。
ほかには、石室を作らずに木管の周りを粘土で固めた粘土郭という方法もあったんだ。
後期からの石室は横穴式石室に変わったんだ。
これは古墳の横側に入り口があり、遺体を入れる部屋を広く作り、そこまでつながる通路があるんだ。
遺体を入れる部屋のことを玄室といい、入り口と玄室を結ぶ通路のことを羨道、入り口と羨道との境目を羨門といいます。
入り口は閉塞石と呼ばれる大きな石で閉じられているんだけど、なんとこの石室はその石をのけると何度でも出入り可能なんだ。
これによって、現在のお墓のように家族一緒に埋葬することができるようになったんだよ。
親子だけじゃなく、孫の代まで一緒だったこともあったみたい。
でも、どうやらお嫁さんは実家のお墓に入っていたみたいなんだよね。
なかなか興味深いね。
古墳の副葬品ってなに?
現在のお葬式でも棺桶の中に、お花や死んだ人が生前好きだった品や思い出深い品を一緒に入れるよね。
この品物を副葬品というんだけど、古墳時代の副葬品はその古墳に埋葬された人やその後継者の権力の強さを示すものだったんだよ。
そして副葬品を調べていくと当時の人々の考え方や風習も知ることができるんだ。
人々の暮らしがだんだんと変化していくに連れて、副葬品も前期と中期以降で大きく変わっていきます。
前期には銅鏡や剣、玉が多く埋葬されています。
3種の神器って知っているかな?
今の天皇家に代々伝わる鏡と剣と玉の宝物なんだけど、元々は神様から授けられたものと言われているんだ。
神社とかでも、ご神体(=神が宿るもの)は鏡のところが多いよね。
昔から鏡・剣・玉は神秘的なもので呪術具として祭りの道具に使われていたんだ。
だから、古墳時代前期は、国の支配者がそれまでの時代同様、呪術的な(=卑弥呼みたいな人)性格だったことがわかるんだよ。
でも、中期以降は鉄製の武器・武具や馬具、甲冑などが埋められるようになりました。
今までと違って戦いに関するものが多くなったんだ。
これは国の支配者が今までと違って武人的な性格になっていったからなんだ。
自分の武力をアピールしていたんだね。
埴輪ってどんな意味があるの?
古墳時代でもう一つ有名なものがある。
それが埴輪(はにわ)なんだけど、1回は見たことあるかな?
この独特な丸い目に丸い口…。
ユルキャラといえなくもないけどどことなく不思議な感じ…。
たまに縄文時代の土偶とごっちゃになってる人もいるけど、全然違うものだから覚えておいてね。
埴輪は古墳の上や周りに並べられた素焼きの焼き物のことです。
最初は円筒埴輪といって丸い筒の形をした土器みたいなもので、古墳の中に立ち入れないよう柵として並べて置かれり、古墳が崩れないよう土止めとして置かれていたんだ。
それからだんだんと人や家、動物などの形をした形象埴輪が作られていったんだ。
形象埴輪のほうがなじみがあると思うんだけど、実は円筒埴輪が一番多く出土されているんだよ。
形象埴輪は人々の暮らしを表していて、人型だと、巫女や兵士や踊ったり相撲をしたり動作をしているものや、笑ったり悲しそうな顔をしたり様々なものがある。
この形象埴輪が作られた意味はいろんな説があるんだ。
例えば卑弥呼の墓には100人ほどの人が生き埋めにされた話は覚えているかな?
昔は偉い人が死ぬと死後の世界でも困ることがないように、つかえていた人も一緒に埋葬されていたんだ。
でも、これはすごくむごくて…
生き埋めにされた人の泣き声やうめき声、死体の臭いなんかもすごかったり…。
ある大和朝廷の王がこの様子のむごさを目の当たりにして、生き埋めではなく、人型の埴輪を作ってその代わりにしたという説もあるんだ。
家の形をした埴輪には死後の世界でも生前と変わらぬ暮らしができるように、動物の埴輪には死後の世界でも乗馬や狩りができるようにという説もある。
またその置かれ方や位置から葬儀や祭りの様子を再現しているのではないかという説もあるんだよ。
でも、まだどれが正しいかはわかってないんだ。
大和政権の誕生
3世紀の後半、近畿地方の豪族たちが協力して政治的な勢力が作られました。
これを大和政権(やまとせいけん)といいます。
大和政権の王は大王(おおきみ)と呼ばれ、7世紀後半から天皇と呼ばれるようになりました。
そう、大和政権は天皇家の初めの姿だ。
大和政権誕生後、現在までずっと続いているんだよ。
大和政権は大王を中心とした豪族たちによる連合国家で、3世紀後半~4世紀には西日本を統一し、東まで勢力を拡大していったという。
この大和政権の大王の墓はすべて前方後円墳。
その勢力の強さが分かったかな?
そして氏姓制度を始めとする様々な制度を作り、国を整えていきます。
国が制度によって整えられると、鉄を求めてなんと朝鮮まで進出していこうとするんだ。
朝鮮は4つの国に分かれていて、その中の「加羅」と「百済」と仲良しだったんだ。
でも「高句麗」という国がどんどん勢力を伸ばして百済、加羅と敵対する。
当然、大和政権も出兵するんだけど負けちゃった。
でもこの戦いのおかげで、乗馬が日本に伝わったんだ。
それまで馬に乗る風習は日本には無かったんだね。
渡来人が伝えたものってなに?
古墳時代でも中国や朝鮮半島から多くのものが伝わってきます。
中国・朝鮮から移住してきた人々のことを渡来人(とらいじん)っていうんだ。
古墳時代のころ、中国や朝鮮では長く争いが続いていて、争いから逃れるために多くの人が日本にわたってきたといわれています。
また大和政権は朝鮮の国々と交易していて、大和政権につかえるためその国の人々がに渡ってきたんだよ。
ではこの人々はどんなことを伝えたのか。
①漢字
②儒教
③須恵器
細かく言えばほかにもあるけど、この3つは絶対に覚えておこう。
古墳時代の特徴、文化まとめ!
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○埴輪=古墳の中や外に置かれた焼き物
○大和政権=大王を中心とする連合国家
○渡来人によって、漢字・儒教・須恵器が伝わる
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