古墳時代、倭を統一し巨大な権力を持っていった大和朝廷の大王。
大王は飛鳥時代には天皇と呼ばれるようになったんだけど、その権力をめぐって大きな動きがあったんだよ。
いつの時代でも権力争いは絶えないね。
はたしてどんな出来事があったのか。だれが政治の中心となっていったのか。詳しく解説していくよ。
飛鳥時代の主な出来事年表
- 592年 推古天皇が即位
- 593年 厩戸王(聖徳太子)が推古天皇の摂政となる
- 603年 冠位十二階の制定
- 604年 十七条の憲法の制定
- 607年 小野妹子を遣隋使として派遣
- 645年 大化の改新
- 663年 白村江の戦い
- 668年 天智天皇即位
- 671年 天智天皇崩御
- 672年 壬申の乱
- 701年 大宝律令の制定
飛鳥時代は592年から710年にかけて118年間のことをいうよ。
なぜ「飛鳥」というのか。
それはこの時代、都・宮(天皇の住まい)がおかれたのが現在の奈良県高市市明日香村あたりだったからなんだ。
この時代で重要なことは4つあります。
≪飛鳥時代の重要ポイント!≫
- 厩戸王の政治
- 中大兄皇子の政治(大化の改新)
- 壬申の乱
- 大宝律令の制定
それぞれのポイントについて、この記事で詳しくみていくよ。
厩戸王の政治~厩戸王ってだれ?~
まず初めに厩戸王についてお話ししよう。
聖徳太子という名前の方がなじみがあるかもしれないね。
前の1万円札に描かれた人物なんだけど見たことあるかな?
1万円札の他にも1000円札や5000円札のときもあるよ。
それほど日本人にはなじみ深く、かつさまざまな偉業を成し遂げた人物ということだね!
また、10人の話を同時に聞き分けられたといった伝説的なエピソードも多いこのお方。
いったい何者なのか。
父は第31代用明天皇、母は皇后穴穂部間人皇女。
「厩戸王」という名前の由来は馬小屋=厩の戸口近くで生まれたからという説がある。
19歳で推古天皇の摂政となります。
この推古天皇は日本初の女性の天皇なんだ。美人で頭も良かったみたい。
摂政というのは、天皇が女性や幼い時に補佐する役割のことだよ。
父である用明天皇が亡くなった後、時代の天皇として、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子(=後の崇峻天皇)を押す蘇我馬子が戦い、蘇我氏が勝利した。
この時からだんだんと蘇我氏に権力が集中するようになっていった。
そして、崇峻天皇も蘇我馬子と対立し、なんと暗殺されてしまったんだ。
そこで馬子は自分の姪であり、用明天皇の同母妹であった推古天皇を天皇の位につけた。
そして、推古天皇の補佐役として、推古天皇の甥であり、馬子とは甥と大叔父の関係だった厩戸王を摂政したんだよ。
蘇我氏は自分の娘を天皇の后として天皇家と親戚関係になっていたんだ。
だから、蘇我氏の血を引く皇族を天皇につけて、自分も政治に口出しできるようにしたんだね。
厩戸王も馬子の娘を后としているので、婿と舅という関係でもあったんだ。
なんだかややこしいけど、当時権力を持つ男性は一夫多妻制で何人でも妻を持つことが出来た。
その上、当時は血統を何よりも重んじたことから、同母兄弟以外ならだれとでも結婚することができたんだ。
現在では考えられないよね。
当時では異母兄弟でも叔父姪でもなんでもアリだったんだ。この時代の皇族の関係図をみるとえらいこっちゃになってるね(笑)
でも、権力を維持するためにはよそ者を入れるより、近親者で周りを固めた方が何かとよかったんだ。
血統を守るためには近親婚はむしろ積極的に行われてたんだよ。
厩戸王の政治~主な政策~
厩戸王は蘇我馬子と協力して天皇を中心とする国づくりを進めていくんだ。彼のとった政策をみてみよう。
冠位十二階の制定
それまで政治は古墳時代に定められた氏姓制度によって進められていたんだけど、もっといろんな人がその能力を発揮できるように役人のレベルを定めたんだ。
これを冠位十二階といいます。
役人の位を12の階級にわけ、色別の冠で表したんだよ。
紫・青・赤・黄・白・黒の色に、濃淡をつけたんだ。(1番高い位は大徳の位と言って濃い紫、1番低い位は薄い黒だよ。)
この制度は世襲ではないため、子や孫には受け継がれない。
身分の低い人でも個人の実力次第でどんどん上の位に進んでいくことが可能だったんだ。
家系ではなく、実力を重んじようとしたんだね。
遣隋使で有名な小野妹子も、高い身分出身ではなかったけど、その能力が評価され最高位である大徳(濃い紫)の冠を授かったんだ。
皇族と大臣である蘇我氏を除いた畿内やその周りの豪族に適用されたんだ。皇族と蘇我氏は別格だったんだね。
十七条の憲法の制定
「和をもって貴しとなす」という第1条の文で有名な憲法だ。
憲法と言っても、現在の社訓や校訓のような役人の心得を示したものだよ。
特に重要なのが第1条~第3条の文だ。わかりやすくいうと
- 和を尊重しなさい(争いをやめて仲良くしなさい)
- 仏教を敬いなさい
- 天皇の命令は絶対
豪族たちの権力争いをやめさせ、天皇に権力を集中させたかったんだね。
また、厩戸王は百済から伝わった仏教も重んじていたんだ。
遣隋使の派遣
遣隋使とは、当時の中国の王朝である隋に先進的な技術や文化を教えてもらうために派遣された一団だよ。
実は600年に一回目の遣隋使を派遣してたみたいなんだ。
しかし、隋は日本のことを「変な風習をもつ未開な国の野蛮人」といって国交を認めてくれなかったんだ。
結構ショックだったんだね。
厩戸王はこれはいかん!と思って、冠位十二階や十七条の憲法を定めて、国際社会でも通用するように国を整えていったんだ。
そして607年、満を持して小野妹子たちを遣隋使として再び隋に送ったんだ。
この時、隋の皇帝に送った文書が有名だね。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」
訳すると
「太陽が昇る所(=日本)の天子が、太陽が沈む所(=隋)の天子に手紙を送ります。お元気ですか」
これには隋の皇帝、大激怒。
「無礼者!二度と来るな!」
注意するのは、「日出ずる処」「日没する処」というところに怒ったのではないということだ。
これはただ「東」と「西」の慣用句だからね。
ではどこがまずかったのか。
「天子」という言葉に激怒したんだ。
「天子」というと、皇帝など地上で最も偉い人に与えられる言葉だ。
日本と隋と比べてみると、国力も文化も当然隋の方がはるかに上だよね。
隋から言わすと、日本なんて国も文化もたいしたことない野蛮人たちが、なにを偉そうに大国である隋と同じく「天子」なんて…
お前いったい何様じゃ!というわけ。
厩戸王はついうっかりこんな文書を送っちゃったのか?
いいや。実はこれ、厩戸王の作戦なんだ。
これまで以前にも弥生時代や古墳時代にも何度か中国に使いを送っているけど、いずれも両国の力関係は中国の方が上だった。
中国の属国として、日本を認めていただくという立場だったんだよね。
でも、厩戸王そんなの嫌だった。
天皇を中心として国が1つにまとまるよういろんな政策をたて、国際社会でも通用するよう国力をつけてきた。
たとえ形式上でもいい。対等な力関係と認めてほしい。
隋との力関係を台頭として日本の天皇の権力を朝鮮半島の国々にも国内の豪族たちにもアピールしたい。
そんな狙いがあったんだ。
隋も本来なら、こんな無礼な使者、その場で斬って捨てたかった。
でも、それが出来ない都合があった。
その当時、隋は朝鮮半島に進出していこうと、高句麗にたびたび兵を進めていた。
その高句麗と日本が手を結んでしまうとこれまたやっかいなことになる。
国内もまだ建国して間もないし、少しでも優位に朝鮮半島に進出していきたい。
こんな隋の事情も全部わかった上での、上記の文書だ。
厩戸王の頭の良さがわかったかな?
こうして隋の皇帝は一度は怒ったものの、日本からの国書を受け入れ日本を対等な関係で国交を結ぶようになったんだ。
それからは何度も留学生や留学僧をつれた遣隋使を派遣し、文化や仏教を学んだんだ。
隋が滅んで唐といういう王朝になっても遣唐使を派遣して交流を続けていったんだよ。
大化の改新~乙巳の変~
大化の改新とは、中大兄皇子が中心となって進めた政治改革のことだよ。
中大兄皇子とはどんな人物なのか。
どうして政治改革が必要だったのか。
それは厩戸王のところにも出てきた蘇我氏が大きく関係しているんだ。
中大兄皇子とは後に第38代天智天皇となる人物です。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(重祚=退位した後もう一度天皇となることして斉明天皇)。
母である斉明天皇が亡くなってから長い間皇位につかず皇太子として実権を握り(=称制という)様々な改革をしていったんだ。
この改革は天皇に権力を集中させるための改革だったんだけど、なぜ改革が必要だったのか?
あれ?厩戸王が体制整えてなかった?って思うだろう。
でも、厩戸王の死後
天皇中心とした国づくりが上手く機能しなくなり、天皇の権力が衰え、ただのお飾りとなってしまったんだ。
いったい何で?
この厩戸王の死。それによって利益を得た人物がいる。
そう蘇我馬子だ。
厩戸王と蘇我馬子は協力して推古天皇を支えていたんだけど、元々馬子は自分が実権をにぎって政治を動かしたかった。(なんてったってそのために邪魔になった天皇暗殺するくらいだし…)
しかし、厩戸王はあくまでも天皇を中心とする国づくりを進めている。
表向きは協力しているけどはっきりいって邪魔だ。
厩戸王は天然痘で亡くなっているんだけど、もしかしたら馬子が暗殺したのではという説もあるくらいなんだ。
厩戸王の死後、推古天皇が上手く馬子の野望をかわしてたみたいなんだけど、それでも政治の実権は蘇我氏が独占するようになったんだ。
そして馬子の死後、その息子である蝦夷が跡を継ぎます。
蝦夷は推古天皇が亡くなると、自分の思い通り操れる皇子を天皇とし、豪華な屋敷を作ったりと蘇我氏の天下を確実なものとしていったんだ。
そして息子である入鹿にバトンタッチして隠居するんだけど、このバトンタッチの儀式。
大臣は天皇がいる宮で天皇によって任命される式なんだけど、なんとこの親子。
自分たちが住む屋敷で、父の蝦夷が任命してやっちゃった。
皇極天皇の御世なんだけど、もうこの時代、天皇の権威なんかつゆほども残ってない。
蝦夷・入鹿親子はもう朝廷に出向かなくなり、豪華な蝦夷邸で政治を行う始末…。
もう誰が天皇でどこが朝廷なんかわかんなくなるよね…。
実際、人々は「まるで蝦夷が天皇のようだ」って言ってました。
そして周りの豪族の不満がどんどん高まっていく中、蝦夷・入鹿の対抗馬として現れたのが山背大兄王。
この方、なんとあの厩戸王の息子さんです。
皆からの人望も厚く、血筋的にも十分天皇になれる由緒正しいお方。
この超強力なライバルに入鹿がとった行動とは…。
突然の襲撃→自害に追い込む。
この暴挙。
もうこれほどの暴挙は他にはありえないってほど。(暗殺するならまだしも襲撃って犯人丸わかりだし、しかも攻め込む正当な理由なんて無し。)
入鹿は、父や祖父ほど思慮深くなく、慎重さに欠ける性格だったようで…。(この行動見たらわかるよね)
父・蝦夷も「我が息子ながらこれはさすがにやばすぎる」と落胆。
ここまでくると、もうこの親子許しちゃおけんとブチ切れ状態の中
立ち上がったのが中大兄皇子なんだ。
中大兄皇子は、時の天皇、皇極天皇の息子。
山背大兄王亡き今、次の入鹿の強力なライバルだよね。
そんな中大兄皇子に入鹿打倒の計画を持ちかけたのが、中臣鎌足という人物でした。
中臣氏は、代々祭祀を仕事とする一族でしたが、鎌足は頭もよく政治の方に興味があり、勉学に励んでいたんだ。
そして打倒蘇我氏の計画を練り上げた2人。
時は来た645年6月12日。
同じ蘇我氏でも蝦夷親子に否定的な蘇我倉山田石川麻呂という人物を味方につけ、入鹿が朝廷に出向いてくる数少ない儀式の時をねらって、ついに中大兄皇子自らその首を切り落としました。
一方、蝦夷も中大兄皇子の計画により、味方だった一族に裏切られ、あんなに豪華で守りも完ぺきだった屋敷も陥落寸前。
息子も死に、味方もいなくなった蝦夷は入鹿の死んだ次の日、屋敷に火を放ち自害。
こうして、絶対的な蘇我氏の天下は幕を閉じたのでした。
この中大兄皇子、中臣鎌足によって蘇我親子を討ったことを乙巳の変という。
そして2人はその後、蘇我氏によって荒れた政治を元の天皇中心の政治に戻すべく奮闘していくのでした。
大化の改新~中大兄皇子の政治改革~
蘇我親子が死んだ翌年
皇極天皇は孝徳天皇に位をゆずり、中大兄皇子は皇太子となった。
そして、改新の詔という新しい国の法令を定めたものを発令した。
蘇我蝦夷・入鹿を倒し、天皇中心の中央集権国家をめざしたこの改革の一連の流れを「大化の改新」というんだけど、この「大化」とは年号のことなんだ。
「平成」の次の年号「令和」が話題だけど、この時代から年号が初めて使われだしたんだ。
ではこの改革で何が定められたのか。
公地公民制
すべての土地・人民は天皇のものとし、豪族が私有地や私有民を持つことを禁止したんだ。
これによって、豪族の財力を削ぎ、天皇の権力を増加させたんだ。
新しい税の取り決めと地方政治の仕組みの整備
今まで「貢物」というものはあったけど、「税」という細かく定められたものはなかったんだ。
また地方の政治は天皇が信頼しているものを派遣して納めさせることにしたんだ。
地方にも天皇の影響力が滞りなく届くようにしたんだね。
これらの改革はあくまで基本方針を示したもので、すぐに実行というわけにはいかなかったんだ。
でも何年もかけて準備して、701年の大宝律令の制定で本格的に実行されることになります。
中大兄皇子と外交~白村江の戦い~
朝鮮半島の覇権をめぐって、高句麗・新羅・百済の3国が争っていた。
618年、中国で唐が建国されてからこの覇権争いが大きく動いていくことになる。
645年、唐が高句麗を攻撃し始める。
この機を逃さなかったのが、新羅だ。
新羅は高句麗と百済から攻められて苦戦してたんだけど、唐が高句麗を攻めだすとすぐさま唐への忠誠心を示し、唐と連合することになる。
一方、百済は大飢饉に見舞われたり、政治が腐敗したりして国力が弱まっていた。そこを唐と新羅の連合にたたかれてもろくも滅亡してしまう。
生き残った残党たちは日本に助けを求めたんだ。
日本は昔から百済と仲が良かったよね。
だけど、大国である唐と戦うことは日本にとってもハイリスク。
でもうまくいけば、朝鮮半島の覇権を手に入れることができる。
そうして日本は朝鮮に出兵することを決断し、朝鮮半島の白村江というところで唐・新羅の連合軍と激突する。
663年のこの戦いのことを白村江の戦いというんだ。
結果は惨敗。
しかも大国である唐を相手にしたことで、下手したら国家滅亡もあり得る事態。
やばい。朝鮮にかまってる場合じゃない。
日本は必死で国防を開始します。
北九州の守りを固めるため、防人と呼ばれる兵を配置したり、大宰府に砦を築いたりしたんだ。
また、天皇を中心とする中央集権国家も猛スピードで整えらえていきました。
国内がバラバラなのに、外国相手に戦えるわけがないと思い知ったんだね。
壬申の乱~古代日本最大の内乱~
壬申の乱とは天智天皇の死後、その跡継ぎをめぐっておこった日本最大の内乱のことだよ。
争ったのは、天智天皇の同母弟である大海人皇子と、天智天皇の息子である大友皇子だ。
初め、天智天皇は大海人皇子を皇太子にしていた。
でも本当は息子である大友皇子に跡を継いでほしかったんだね。
なぜ大友皇子を初めから皇太子にしなかったのか。
したくてもできなかったんだ。大友皇子の母親は身分の低い側室。
当時は母親の血統も重要視されていたから長男だからといって皇位継承できるとは限らなかったんだ。
でもそこは天智天皇。
蘇我氏を倒した乙巳の変以降、自分の邪魔になる相手は誰であろうと処刑してきた。
婿と舅の関係で、乙巳の変で協力してくれた蘇我倉山田石川麻呂も謀反の罪をきせて処刑していた。
大海人皇子もそれを恐れて皇太子を辞退し、吉野というところに逃れて隠居生活を送っていた。
ちなみに天智天皇と大海人皇子は一人の女性を取り合ったことでも有名だ。
額田王という優れた歌人でもあったこの女性。
初めは大海人皇子の后となり一人娘をもうけていた。
しかし、天智天皇が横恋慕して大海人皇子から奪っちゃったんだ。
「おれの娘やるから額田王をくれ」
って言って、天智天皇は娘を2人、大海人皇子に嫁がせるんだけど(このうちの一人が後の持統天皇)
大海人皇子からしたらたまったもんじゃない。
でも容赦なく自分の目障りなものを殺している兄の性格を考えると、断ったら自分の立場も命さえも危うい…。
泣く泣くこの要求を受け入れたんだけど、あんまりだよね。
(この辺の三角関係については万葉集の歌の中にも入っているから、ぜひさがしてみてね!)
こんな感じで黙って耐えていた大海人皇子だけど、天智天皇の死後は吉野で大友皇子率いる朝廷の様子を注意深く見ていた。
大友皇子が即位したかどうかは諸説あるんだけど、政治の中心にいたことは確かだ。
そんな中、大友皇子が兵をあげて大海人皇子を討とうとしているというのが大海人皇子の耳に入った。
ついに大海人皇子も黙ってられず挙兵したんだ。
でも、この挙兵についたは大海人皇子が先だったという説もある。
大海人皇子は頭も切れるし、カリスマ性もある。
そして、白村江の敗戦後の国防政策に多くの豪族や民衆が不満に思っていたことや、大海人皇子のほうが血統が圧倒的に良い(大海人の母=皇極天皇VS大友の母=身分の低い側室)ことで、たくさんの兵が大海人皇子のもとに集まったんだ。
対して、大友皇子が集めることができたのは都の近くにいた兵だけ。
戦う前から勝敗は明らかだよね。
結局、大友皇子は自害。
大海人皇子が勝利
天武天皇として即位して、その人望を活かし、天皇中心の国家をますます強固のものにしていくんだよ。
天武天皇や持統天皇(初め天武天皇の皇后。天智天皇の娘。天武天皇の死後即位した。)の元でますます天皇の力は巨大になり、天皇を「神」だと考える動きが強まっていったんだ。
大宝律令の制定~律令政治のはじまり~
701年、唐の律令を手本にして作られた法典である大宝律令が制定された。
厩戸王から始まり天智・天武天皇といった天皇が進めてきた天皇中心の中央政権の国家の仕組みがようやく固まり、本格的にスタートしたんだ。
当時は当然、民主主義じゃない。
大宝律令とは天皇の権力そのものであり、天皇の一存で法律を制定したり、変えたりできたんだよ。
律令に基づいて行う政治を律令政治という。
大宝律令は「律」と「令」の2つ内容からなりたっているんだけど、「律」は罰則や刑法で、「令」は政治制度のことだよ。「令」について詳しくみていこう。
中央政治と地方政治
中央には2官8省という役職をおいた。
2官とは神祇官と太政官のことで、神祇官は主に祭事を担当し、太政官は国政を担っていた。
太政官の下に仕事ごとに細かく分けた8省を置いたんだ。
(大蔵省や宮内省など)現在の省庁の原型にもなっているよ。
地方は国郡里にわけられて、それぞれ国司・郡司・里長という役職が置かれた。
国は今でいう県、郡里は市町村というイメージだ。
郡司と里長は地方豪族から選ばれていたんだけど、国司は中央政府から選ばれていた。
これによって地方すみずみまで中央政府の力が及ぶようにしたんだ。
土地制度
6年ごとに戸籍を作り、これをもとに6歳以上の全ての男女に口分田という土地を与えたんだ。
これを班田収授法と言います。
農民に課せられた税
租…全ての6歳以上の男女に与えられる口分田の収穫量のうち約3%にあたる稲を納める→地方に納める
調…成人男性に課せられる織物や地方の特産物を納める→中央(都)に納める
庸…労役に就く代わりに布などを納める→中央(都)に納める
このように重い税が課せられた。政府の重要な収入源になるんだけど、農民にとっては重すぎて口分田を捨てて逃げ出したりして田畑が荒れたりしたんだ。
調や庸も自分で重い荷物を持って都まで運んで行かなければならないから、途中で逃げたり、死んだりしてしまったんだ。
また、この3つの他にも防人という3年交代で北九州の防備にあたる兵役もあったんだ。
これも農民には負担になっていたんだよ。
飛鳥時代の出来事、要点まとめ!
重要な語句を下の表にまとめたよ。
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