聖武天皇が仏教の力で国内を平和へと導こうとしていた奈良時代。
この時代は仏教を中心に様々な文化が花開いた文化なんだ。
この時代の文化を聖武天皇の御世の元号をとって天平文化と言います。それでは詳しくみていこう!
奈良時代の天平文化の特徴
この文化の特徴は中国の王朝である唐の文化を色濃く受け継いでいて国際色豊かだということだ。
当時の中国も玄宗皇帝の元、もっとも繁栄していた。
日本はそんな唐から遣唐使を通して優れた文化がわたって来ていたんだ。
都やお金、法律に至るまで唐のものをお手本としているよ。
そして、仏教文化が盛んだったことも特徴の1つだ。
優れた仏教建築や彫刻
聖武天皇は仏教の力で国内を平和にしようとしたよね。
この考えを鎮護国家の思想というんだけど、これは都だけではなく地方にも伝わっていたんだ。
そして寺院もたくさん建てられたんだよ。
代表的な寺院を紹介するよ。
まずは平城京にある東大寺。
修学旅行でおなじみのこのお寺。
ここは天平文化を代表する様々なものがあるよ。
奈良の大仏で親しまれている東大寺盧舎那大仏像。
引用:wikipedia
高さ15mあるこの仏像を造る工事に携わった人間はおよそ260万人余りといわれ、使用された銅や金は国内中から集められたんだ。
これだけ大きな大仏。無事に完成するまでに何度も制作中止の危機があったんだ。
それというのも聖武天皇は大仏建立の詔(=命令)は出したものの、自分の権力を使って大仏づくりを国民に強制したくなかったんだ。
あくまで国民全員、富みある者も、貧しいものも心の底から一致団結して国の為に仏像をつくろう!ってスタンスだったんだ。でも国内は疫病や争いで荒れている…。国民はそんな余裕なんてないよね。
聖武天皇もその姿をみて1度は諦めようとしたんだ。でも、そんな聖武天皇を励まして大仏づくりを支えた人物がいた。
妻である光明皇后だ。
光明皇后は聖武天皇を励ましただけでなく、けが人の為に薬を買って自ら治療をしたり、自分も国民と一緒になって裸足で土を踏んだりしたんだ。
そして、もう1人。この人がいなかったら大仏は建てられなかったという人物がいる。
大仏建立の総責任者でもあり、身分の高いお坊さんである行基という人物だ。この時代、僧侶は朝廷によって身分を優遇されていたんだ。そのせいで、中にはその財力を求めてお坊さんになるという不届き者も現れるようになった。
でも、行基は自分の財力を民衆の暮らしが良くなるように使ったんだ。
日本各地を練り歩いて田んぼの道具や貯水池なんかを整えてあげたんだ。
民衆はもう行基大好き!
生活に苦しむ民衆にとってはもう生き仏のように思えたんだろうね。そして、聖武天皇もそんな行基の行いを認めて大仏建立の責任者を任せたんだ。残念ながら行基は大仏の完成を待たずして亡くなってしまうんだけど、行基の死後は聖武天皇がその意思を継いで3年後にようやく完成したんだ。
こんなに苦労して建てられた大仏なんだけど、以降2度にわたって焼失してしまい、当時のものはほんの一部しか残っていない。現在の大仏は、江戸時代に再建されたものなんだ。
大仏以外にも東大寺法華堂は現存する数少ない天平文化を代表とする建築物として国宝に指定されているよ。
そしてその中にある不空羂索観音像は天平文化を代表とする仏像の1つだ。
そして忘れてはいけないのが、正倉院。
引用:wikipedia
ここは聖武天皇の遺品や愛用品が治められている宝物庫だ。
またシルクロードを通って、西アジアやインドから唐に伝わり、遣唐使が持ち帰った道具や楽器も収められているんだ。有名なものは、白瑠璃碗や螺鈿紫檀五弦琵琶などがあるよ。
また、この倉庫の建てられ方は校倉造(あぜくらづくり)といって、柱を用いず断面が三角形の木材の平らの面を内側にして積み上げて壁にする方法だ。天平文化の代表的な建築様式だよ。
もう1つ重要なお寺がある。
鑑真という僧によって開かれた唐招提寺だ。
引用:wikipedia
特に金堂(寺の中で一番重要な仏像を配置する建物)は天平文化の建築の荘厳な美しさをもっともよく知ることができるんだ。
鑑真は元々は唐の高僧(徳の高い立派な僧)だったんだ。日本人じゃなく中国人なんだよ。
僧侶が守るべきものである戒律を授けることができる数少ない人だったんだ。
当時の日本は僧になると身分が優遇されることから、戒律を受けずに勝手に僧になる人が多かった。そこで、聖武天皇は唐から授戒できる高僧を日本に招いて、僧の規律を正そうとした。
そこで白羽の矢が当たったのが鑑真だったんだ。
遣唐使が行き来しているといっても大きな海を船で渡るというのは命がけ。鑑真も5回失敗し、6回目にしてようやく日本にたどり着くことができたんだ。
その間、実に12年。しかも5回目の失敗の時にはなんと両目を失明してしまったんだ。そんな苦労を味わいながらも、なんとしても日本に戒律をという気持ちが強かったんだね。度重なる苦難を乗り越えながらも日本にたどり着いた鑑真は、孝謙天皇から僧の戒律について全面的に一任され、東大寺に住むことになった。
そして、日本の僧たちに戒律を伝えたり、苦しい生活を強いられている民衆を救うことに心を砕いたんだ。唐招提寺を開いてから5年後、鑑真は76歳でその波乱に満ちた人生に幕を下ろしたんだ。
国史の編纂
奈良時代の初め、日本の成り立ちについて記している「古事記」「日本書紀」という歴史書が編纂されたんだ。
《古事記》
稗田阿礼が口頭で読み習っていた「帝紀」「旧辞」というもの太安万侶が文章にわかりやすくまとめたものだよ。
上・中・下の3巻構成で、上巻は天地創造から神々の物語、中・下巻は初代神武天皇から33代推古天皇までの出来事が記されている。和化漢文という日本語の音を漢字にあてるという日本独自の表記が用いられていて、登場人物たちのエピソードが生き生きと物語のように書かれているよ。わかりやすくいうと日本の神話だね。
全体の3分の1が神々の時代の出来事(イザナギ・イザナミの国造り、天照大神の天岩戸事件など)について記されていることから、天皇家が神の子孫であり、正当な国の統治者であることを国内に示したんだ。国内向けの歴史書だね。
《日本書紀》
古事記の完成から8年後の720年に完成した歴史書。
全30巻。内容は神々の時代から持統天皇までの出来事について書かれているよ。古事記とは違い漢文を用いていて、出来事を年代順に並べて記すという編年体という書き方になっているんだよ。
漢文は当時の国際語ともいえることから、朝鮮や中国と言った近隣の国々に日本の正しい歴史と国家の成り立ちを示し、日本は立派な国だということをアピールしているんだ。
また、このような国の歴史書以外に、地方には風土記というその地方の特産品や地名の起源、土地の伝承についてまとめた書物が作られたんだ。地方の伝承は現在も昔話として伝わっていて、みんなが知ってる浦島太郎も元ネタはこの風土記なんだよ。
全ての国に編纂が命じられたんだけど現在まで当時のまま残っているのは出雲国(島根県)だけなんだ。
文学
天平文化を代表とする歌集に万葉集があります。
これは日本に現存する最古の和歌集なんだ。
万葉集といえば、現在の年号「令和」がここからとられたとして一躍有名になったよね。全20巻からなるこの和歌集。およそ4500もの和歌が納められているんだ。和歌は日本独自の文化で、和歌を詠むことが貴族や皇族たちの生活の一部であり、ステータスとなっていたんだよ。
自然を詠んだ歌や恋の歌、死んだ人を悼む歌などいろんな歌があるよ。これらの和歌は「万葉仮名」といわれる漢字の表す意味とは関係なく、例えば「君は」→「岐美派」といったように漢字の読みだけ借りて日本語の読みを表す方法で書かれているんだ。
天平文化の要点まとめ!
天平文化についてまとめたよ。
- 天平文化=国際色豊かな文化。仏教文化。
- 東大寺盧舎那仏=聖武天皇の命によって作られた。最高責任者は行基。
- 正倉院=東大寺にある宝物庫。聖武天皇の愛用品や遣唐使が持ち帰った道具や楽器など。校倉造。
- 唐招提寺=鑑真によって開かれた。
- 地方=風土記(各地の伝承などを記したもの)
- 万葉集=最古の和歌集。万葉仮名。
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