歴史上の人物として超、超、超有名なのが
聖徳太子だね!
学校で歴史を学んだことのある人で
知らない人はいないだろうというのがこの人物だ。
だけど、聖徳太子って何をした人なの??
と、問われると困ってしまう人もいるかもしれない(^^;)
学校のテストでも問われる大事なことなので
今回の記事で、しっかりとまとめておきます。
聖徳太子の政治(やったこと)とは具体的に以下のことです。
- 推古天皇の摂政として、政治をサポート
- 冠位十二階の制度を定めた
- 十七条の憲法を制定
- 遣隋使の派遣
- 法隆寺を建立
聖徳太子の政治①~推古天皇の摂政~
まず、聖徳太子の政治について解説を進める前に触れておきたいことがあります。
それは、聖徳太子という名前について。
実は、彼が生きている間には厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていました。
聖徳太子というのは、彼が死んだ後に呼ばれるようになった称号みたいなものなんだよね。
だから、最近の教科書では聖徳太子ではなく、厩戸皇子と記述してあるようです。
が、今回の記事では便宜上、聖徳太子という名前を使って解説をさせていただきます。
そんな聖徳太子ですが
彼は、女帝である推古天皇の摂政(せっしょう)として政治をサポートしました。
摂政とは、天皇に代わって政治を行う役職のことをいいます。
いろいろな外国事情から
日本はこのままではいかん!
天皇を中心としたまとまりのある強い国にせねば!!
そういった志を抱き
推古天皇のもとで蘇我馬子と二人で協力し合いながら政治を進めていきます。
聖徳太子の政治②~冠位十二階~
これまでの日本は、氏姓制度の下
生まれながらにして身分が決まっておりました。
つまり、能力がなくても家柄が良ければ出世していくって感じ。
そんな世の中であれば、国の力は落ちていくことが目に見えていますね(^^;)
だから、聖徳太子はそんな腐った制度をぶち壊すため
冠位十二階という制度を定めました。
冠位十二階とは、家柄にとらわれず能力のある者を役人に登用するという制度です。
才能を認められたり、功績をあげることができれば役人として出世することができるのです。
これによって、有用な人材を集めることができ
より強固な国づくりをすることができるようになりますね。
聖徳太子の制度③~十七条の憲法~
役人としての心構え、天皇に尽くすことなどを明記した十七条の憲法を制定しました。
これによって、役人の不正を正したり
天皇を中心とした考え方を浸透させる狙いがあったわけだね。
一に曰く、和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ。
二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。
三に曰く、詔をうけたまわりては必ずつつしめ。
これが十七条の憲法の一部なんだけど
ちょっと難しい言葉が多くて意味が分かんないね。
だから、簡単に要約するとこんな感じだ。
- みんな仲良くしようね~
- 仏教の教えは大事だよ~
- 天皇の命令は絶対だからね~
それによって聖徳太子がしたかったこと
その狙いは何だったのかまで、しっかりと頭に入れておこうね!
聖徳太子の政治④~遣隋使~
中国の進んだ制度や文化を学ぶため
中国にある隋という国に対して遣いを送りました。
それを遣隋使(けんずいし)といいます。
遣隋使には、学びを得る目的以外にも
隋と対等な立場を得るという狙いもありました。
これまでの日本は、中国に対して格下の立場にいました。
中国に仕えている国っていう立ち位置ですね。
だけど、いつまでも中国に対して
そのような立場でいるわけにはいきません。
日本の力を強固なものにし、発展させていくためには
中国との力関係は、解決しておくべき問題です。
というわけでは
聖徳太子は隋に対して決して、下からヨイショするわけではなく、対等な立場として接しました。
そのような態度について、隋の煬帝はブチギレでした。
だけど、その当時
隋は朝鮮半島の高句麗と争っていたということもあり
日本を味方にしておく方が都合が良かったんですね。
だから、心の底ではキレていたでしょうが
日本と対等な立場で外交をしてくれたのでした。
そんな遣隋使として有名なのが、小野妹子(おののいもこ)ですね。
テストにも出題されるくらいの重要キーワードなので、しっかりと覚えておきましょう。
聖徳太子の政治⑤~法隆寺の建立~
この時代に栄えた仏教文化のことを飛鳥文化といいます。
【参考記事】
そんな中でも有名なのが法隆寺ですね。
これは聖徳太子が建てたとされるお寺であり、現存する世界最古の木造建築物とされているんだよ。
そんな貴重な建物だから
もちろん、世界遺産にも登録されているよ。
聖徳太子の政治まとめ!
聖徳太子のやったことは以上のことでした。
- 推古天皇の摂政として、政治をサポート
- 冠位十二階の制度を定めた
- 十七条の憲法を制定
- 遣隋使の派遣
- 法隆寺を建立
目的としては、天皇を中心とした中央集権国家を作るためです。
聖徳太子の時代だけでは、強固な中央集権国家の実現にはいたりませんでしたが、その意思を継ぐ者たちによって、どんどんと政治は進んでいきます。
聖徳太子が亡くなった後には
大化の改新によって、大きく政治改革が進められていきます。
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