【毛利元就の生涯年表】わかりやすくまとめていくぞ!

戦国一の智将として知られた毛利元就

名前は一度は聞いたことがあるかな?

中国地方の覇者として名高いこの人物は果たしてどのような生涯をおくったのか。詳しく解説していくよ。

毛利元就の生涯年表まとめ!

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「乞食若様」から一国の主へ

毛利元就は安芸の国の国人であった毛利家の二男として生まれた。

国人というのは大名ではなく、それより格下の今でいう町長みたいなものだ。

 

当時は応仁の乱の影響で戦国時代がはじまり、下剋上という風潮が広まっていた。

毛利家は室町幕府の重臣であった大名:大内氏に仕えており、立場は非常に危ういものだった。

父はそのせいで若くして隠居し、元就の兄へ家督を譲っていた。

元就は父と一緒に隠居先の城で住んでいたんだけど、5歳で母が死に、10歳の時に父まで亡くなってしまった。(父はアル中だったらしい)

 

ここから、どん底人生の始まり。

 

まだ幼かった元就はなんと後見人となった家臣の裏切りにあい、城を追い出されてしまった。

 

「乞食若様」とバカにされ貧窮し明日の暮らしもままならない。

そこに手を差し伸べたのが、父の後妻で元就には義母にあたる女性だ。

この人はまだ若かったんだけど、再婚もせず自分が元就を引き取って養育することにした。

元就はこの恩を一生忘れず、成人して一国の主となってからもずっとこの義母を本当の母のように、いやそれ以上に大切にしたという。

 

そして、城をのっとった後見人が死んだことから、城を奪還することに成功し、義母が兄に働き掛けたおかげでやっと元服することが出来た。

やっと安定した生活が送れると思ったその矢先。

なんと兄が死んでしまった。

父と同じく酒が原因だったという。

 

兄には跡継ぎである男の子がいたがその時まだ2歳。そこで叔父である元就が後見人を務めることになった。

しかし、世は戦国。領主が急死し、跡を継いだのは2歳。後見人はこれまたまだ20歳そこそこの若輩者。

こんなチャンスを近隣の武将がほっとくわけもなく、毛利家は早々に攻め込まれることになった。

 

元就にとってこの戦は初陣。

初陣にして、負けたらお家がつぶされるって中々にシビアだよね。

誰もが「毛利氏も終わりか…。」と思ったこの戦。

なんと勝ったのは元就だった。

 

敵軍大将を上手く誘い出し、一斉に弓を射るという作戦だった。

この戦いは後世「西国の桶狭間」と呼ばれ、その戦の鮮やかさで一躍名が広まった。

 

そして、元就はその勢いのまま、主君を大内氏から尼子氏という大内氏と中国の覇権を争っていた大名へと替え、地道に武勲をあげ活躍する。

主君の尼子氏も元就の知略を恐れたほどの働きぶり。

 

しかしそんな時、なんと今度は毛利家当主だった甥が9歳の若さで急死してしまう。

そこで、当然元就が当主となるんだけどこれに尼子氏が介入してきた。

元就を警戒していたんだね。

しかし、元就はこの尼子氏の介入を退け、再び大内氏に仕えることにした。

主君をころころ変えているようだけど、これは戦国の世で生き抜くためには必要なこと。

 

そうして毛利家当主となった元就はまず安芸の国の統一と強化を図った。

もちろん合戦もするんだけど、そればかりではない。

重要な一族には自分の娘を嫁がせて婚姻関係を結んだり、自分の息子たちを有力な武将の養子として送り込み、後々家督を継がせたりして周囲との結びつきを強くしていったんだ。

他にも、自分に誠心誠意仕えると書かせた誓約書を提出させたり、反抗的な一族は後々禍根を残さぬよう一族皆殺しにしたりした。元就が冷酷な策略家と呼ばれるのはこのようなことをしたからだ。

でも、冷酷無慈悲に殺していったわけじゃなく、後々自分の家が脅かされないようにするためだったし、敵対していた一族であっても恩を感じていた人は助けてあげたりもしていたんだよ。

このように命を助けてもらった人々は、生涯元就のために尽くしたんだ。

 

そうして勢力を拡大していった元就は大内氏と協力して、進出してきた尼子氏を撤退させることに成功。

そこでまたもや事件がおこる。

仕えていた大内氏がその家臣の陶晴賢という人物によって撃たれてしまったんだ。

中国地方の覇者の死に激震が走ったんだけど、元就はここを見逃さなかった。

これ幸いとばかりに、どさくさに紛れて大内氏の領土の一部を奪うことに成功。

そして周囲の武将と協力して陶氏を討とうとしたけど、さすが大内氏を破った陶氏。

戦力は3万。一方、毛利勢は5千。

 

正面突破は絶対無理とのことで、ここでもその知略を活かし、陶氏の内部分裂を企てたんだ。

陶氏はこの元就の策にまんまとハマり、戦力を大幅に欠くことになってしまったんだ。

そしていよいよ、中国地方の覇権をかけ、両者がぶつかることになる。

大勝負!中国地方の覇権をかけた厳島の戦い

毛利元就の人生で最大の合戦。

それは陶晴賢と中国地方の覇権をめぐって激突した厳島の戦いだ。

この時、元就は60歳近い年齢となっていた。

合戦の場所は、毛利氏の重要拠点の1つだった厳島だ。

現在でも「安芸の宮島」有名だね。

 

水軍を持っていた元就にとってここはかなりの重要な場所。

しかし、晴賢は2万の大軍を引き連れてここに上陸し、本陣を置き総攻撃を企てていた。

元就の家臣がいた宮尾城を攻め、陥落寸前まで追い詰めた。

知らせを受けた元就は急いで援軍を送り、自身も兵を率いて厳島にある水軍の基地へと向かった。

 

晴賢の運が悪かったのは、日柄が悪いと言って総攻撃の日を延期していたこと。

元就にとっては軍を立て直すチャンス期間でしかない。

せっせと島中に兵を配置し、戦の準備を整えていく元就。

対する晴賢は、天気も悪いし、この大軍に適うはずもないと余裕綽々。

 

そして3日後、天気は荒れて夕方から暴風雨に。

「これぞ天のご加護だ!」と兵を鼓舞した元就は、奇襲攻撃を開始。

主力部隊が背後から、別部隊が正面から、沖合の配置した水軍も陶氏の水軍めがけて襲い掛かる。

 

まさかこんな雨の中攻めてくるまいと思っていた陶軍は大混乱。

なすすべもなく一気に攻め落とされ、陶晴賢は自害。

当主を失った陶氏は滅亡し、元就はこの勢いのまま大内氏の残党や、因縁の尼子氏をはじめとする敵対する武将を排除し、ついに中国地方全土に及ぶ8ヶ国を支配する大大名となったのだった。

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3本なら絶対折れない!元就と3人の息子たち

元就の有名な逸話として3本の矢という話がある。

死ぬ間際に3兄弟を呼び寄せて、1本の矢を折ってみろと渡す。

矢は簡単に折れ、次に3本の矢を折れという。

すると今度は誰がしてもなかなか折れない。

そこで元就は息子たちに言った。

 

1本ならもろくすぐ折れてしまうが、3本になると頑丈になり強くなる。

お前たちもこのように強い結びつきで国を守れと。

 

こんなお話なんだけど、これは後世に書かれた作り話なんだ。

でも実際に元就はこのようなことを息子たちに望んでいたんだ。

元就は11人も子供がいたんだけど、ここで毛利3兄弟と言われているのは正室が生んだ長男・次男・三男のことだ。(ちなみに元就は愛妻家で、正室が亡くなるまでいっさい側室をおかず、死んでからも息子たちにたびたび正室に会いたいとぼやいていたそうだ。)

毛利3兄弟を簡単に紹介しよう。

【嫡男:毛利隆元】

温厚な性格で教養人。父が隠居した後(実権は父)国内を治める内政で手腕を発揮し、父を支える。合戦は苦手。尼子氏攻略中に亡くなる。(元就より先に死んでしまう。)

【次男:吉川元春】

吉川氏に養子に入り家督を継ぐ。吉川氏は母の出身で安芸の名家。勇猛果敢な性格で合戦において大活躍。

【三男:小早川興景】

小早川氏に養子に入り家督を継ぐ。小早川氏も安芸の名家。厳格で真面目な性格で冗談1つ言わなかったとか。兄:元春とともに「毛利両川」と呼ばれ合戦で大活躍。

このように元就は重要な名家の当主に自分の息子を置き、毛利家との結びつきを強化&勢力を拡大していった。

特に次男と三男が跡を継いだ吉川氏と小早川氏は常に毛利氏の傍にいてこれを守り、通称「毛利の両川」と呼ばれていたのは当時から有名な話だった。

元就はこのことによって領土だけでなく、水軍も手に入れることに成功した。

毛利氏は山側の領土だったから水軍は持っておらず、小早川氏の水軍を手に入れたことは、水陸両用で合戦可能という大きな利点となったんだ。

この毛利3兄弟。

元就が中国地方の覇権を手に入れるためには必要不可欠なものだったんだね。

まとめ!

戦国一の智将。

毛利元就の歩んだ人生はいかがだっただろうか。

若い頃はつらい苦労があったけど、それを乗り越えて、大大名にまで出世した頭の良さと根性はすごい事だよね。ここが毛利元就の魅力だ。

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