貴族が中心となって政治を動かしていた平安時代。
しかし、平安時代後期になってくると貴族中心の社会ではなくなってくるんだ。
では誰が中心となって、どんな政治をし、どんな出来事があるのか。
この記事で詳しく解説するよ。
平安時代の主な出来事年表
- 797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される
- 894年 遣唐使を廃止する
- 1016年 藤原道長が摂政となる(摂関政治の全盛期)
- 1086年 院政が始まる(白河上皇)
- 1156年 保元の乱
- 1159年 平治の乱
- 1167年 平清盛が太政大臣となる
- 日宋貿易が行われる
- 1180年 源平の争乱
この記事では、武士の登場と、院政~源平の争乱までの出来事について詳しく解説していくよ。
平安時代の藤原氏による院政についてはこちらの記事をご参考ください。
武士の登場と反乱
武士と言えば、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など戦国時代の有名な武将を思い浮かべる人も多いだろう。
そんな勇猛果敢な武士たちはいったい何時代から登場してきたのだろう。
武士はなんと平安時代に登場したんだ。
平安時代中期になると、国司が税を不正に取り立てたり、土地を奪ったりと地方の政治がだんだんと乱れてきた。こうなると自分たちの土地は自分たちで守るしかない。
地方豪族や有力な農民たちは武器を持って戦うようになった。
これが武士のはじまりなんだよ。
やがて武士は元国司の中からリーダーを得て、武士団を作っていったんだ。国司の任務の人々は都にいるその他大勢の貴族や皇族にまぎれて生活するよりも、自分の他に身分の高いものがいない地方に残った方が良い暮らしができた。だから、国司の中には任期が終わっても都に帰らない人もいたんだ。
そんな人々が武士を率いてリーダー=棟梁になっていく。
この武士団の有名なものがみんなが良く知っている源氏と平氏だね。この2つはどちらも天皇の子孫なんだ。(皇子が臣籍降下=名字を与えられ貴族となる)
そして武士団は御所(天皇の住まい)の警備に当たったりとだんだんと力をつけてくる。
そして、武士の力を見せつける大事件が起こる。
935年に起きた平将門の乱と、939年に起きた藤原純友の乱だ。
平将門は関東の武士で、現在の千葉県で反乱を起こした。自らを「親皇(しんのう)」と名乗り、独立国家を造ろうとしたんだ。
藤原純友は瀬戸内海で反乱を起こした。元々は海賊を取り締まる国司として派遣されたんだけど、海賊たちを次々とまとめあげ、なんと自分がトップになって反乱を起こしちゃったんだ。
もう都の貴族たちは大慌て。朝廷の権力をゆるがすこの事件。
おまけに貴族たちは都で和歌を詠んだり、蹴鞠をしたり、雅な生活をしていたからね。戦が起きてもどうしようもできない。
そこで、武士だ。
朝廷はこの反乱を武士の力で鎮圧することに成功した。
こうして、戦において武士の力はなくてはならないものになっていた。
そして、武士は都での地位を高めていく。源氏は東日本、平氏は西日本を中心に勢力を拡大していったよ。
白河上皇と院政
藤原氏における摂関政治は、平安時代後期になり藤原氏と関係の薄い後三条天皇が即位するとだんだんと衰えていったんだ。そして、また天皇に力が戻ったかと思いきや、そうではないんだ。
天皇に代わって、上皇が政治の実権を握ったんだよ。
上皇ってわかるかな?上皇は先代の天皇のことだよ。
天皇は退位すると上皇と呼ばれるようになるんだ。
11世紀後半、白河上皇が位を幼い息子の堀川天皇に譲って、自らは上皇として実権を握り続けたのが始まりだよ。この政治形態のことを院政という。院とは上皇の住まいのことで、院で行われる政治=院政というわけだ。
院政は白河上皇に始まり、鳥羽上皇、後白河上皇ら約100年にわたって行われたんだ。中でも白河上皇は約40年間にわたって莫大な権力を握り続けたんだよ。
平氏の台頭と平清盛
院政が行われる中で、天皇家の内部でも天皇と上皇とで権力をめぐって対立が起きた。
1156年に起きた保元の乱だ。
崇徳上皇と、同母弟である後白河天皇の対立だったんだけど、この崇徳上皇が不運な方で…。
この2人の父は鳥羽天皇。でも父帝は崇徳上皇にだけ冷たかった。
実は崇徳上皇は白河上皇の息子だと言われていたんだ。母がかつて白河上皇につかえていたからそう思われたんだけど、父帝自らそう信じていたんだから周りもねえ…。
白河上皇が生きていたころは大丈夫(むしろ白河天皇からは大事にされていた)だったんだけど、亡くなってからは不幸の始まり…。
父帝により22歳で退位の後、崇徳上皇の息子ではなく弟たちに天皇の位がわたり、院政ができない。(院政は自分の息子が天皇にならなければならない)
政治の実権も権力も奪われなすすべもなく…。おまけに父帝が病に倒れてからもお見舞いに行っても門前払い。そこまで嫌われるか…。
もちろん、弟の後白河天皇との仲も険悪。
そして、自分を冷遇していた鳥羽上皇が亡くなった。(亡くなってからも会うことは許されなかったみたい)
これはチャンスとばかりに武士や藤原氏の内部争いもくっついて挙兵へ。
でも、勝ったのは弟の後白河天皇。あわれ、崇徳上皇は讃岐国(香川県)に流されそこで亡くなってしまうのです。(ちなみに崇徳上皇は日本三大怨霊の1人だよ。)
さて、この争いで後白河天皇側について活躍したのが、平清盛と源義朝です。
この争い以降、清盛は後白河天皇と急速に距離を縮めていったんだ。それを良く思わなかったのが、源義朝。
保元の乱での恩賞(天皇から与えられた褒美)にも不満を持っていた源義朝はつい挙兵したんだ。
これが1159年におこった平治の乱。
でもすぐに清盛によって鎮圧され、邪魔者を排除した清盛はますます後白河上皇(退位して院政開始)と関係を深めていく。そして、1167年ついに武士として初めて太政大臣となり政治の実権を握るようになる。
また、娘を高倉天皇の皇后にして、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、平氏一族を朝廷での重要な役職につけたんだ。その絶大な権力は「平氏にあらずんば人にあらず(平氏一族のものでなければ人ではない)」とまで言われるほどだったんだ。
ここまでで、なにか清盛の政治について気づくことはないかな?
そう、この清盛の政治は、まるで藤原氏がおこなった摂関政治のようだね。
武士でありながらまるで貴族のような政治や暮らしぶりだった平清盛。これが他の武士たちの不満を招くようになり、後の争乱にもつながっていくんだ。
また、清盛は外交においても優れた政治的手腕を発揮するんだよ。
清盛は中国の王朝である宋と貿易したんだ。これを日宋貿易と言います。清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を日宋貿易の拠点とし、厳島神社を貿易の航海の安全を守る神として信仰したんだ。日宋貿易では多くの宋銭が日本に輸入された。それにより、日本の貨幣経済は大きく発展していくこととなったんだよ。
源平の争乱
貴族の摂関政治をまねた政治を行い、栄華を極めた平氏一族ですが、だんだんと他の武士たちからの不満が続出します。また武士だけでなく、関係を深めていた後白河上皇と対立してしまい、なんと清盛は後白河天皇を幽閉してしまうんだ。
これをきっかけに各地で平氏打倒の動きが起きるようになってしまった。
その動きの中心となったのが、後に鎌倉幕府を開く源頼朝だ。源頼朝は平治の乱で清盛に敗れた源義朝の息子だよ。頼朝は処刑を免れて伊豆に流されていたんだ。頼朝は妻の実家である北条家の助けも借りつつ挙兵し、関東を平定し、鎌倉を本拠地とし平氏を追い詰めていく。
そして、さらに平氏に大打撃を与えた出来事が、平清盛の死だ。
清盛は熱病によってこの世を去った。平氏一門を率いて太政大臣にまで上り詰め、栄華を誇った偉大な指導者を失った平氏は、これ以降一気に没落していく。
貴族のような生活をしていた平氏と、打倒平氏に燃え、鍛練を欠かさなかった源氏とどちらが強いかなんて明らかだよね。まして源氏は戦上手として名高い源義経が、バッタバッタと平氏を倒していく。(源義経は頼朝の弟だよ)おまけに後白河上皇も味方に付け、その勢いとどまる所を知らず。
そしてついに、平氏はまだ幼い安徳天皇を連れて都を逃れ、西へ西へ落ちていく。
元々平氏は水軍を得意としていて、瀬戸内海で決着をつけようとしていたんだけど、一の谷の戦い、屋島の戦いと大敗を期していく。そしてついに1185年、壇ノ浦の戦いにて最終決戦となった。
最初は平氏が優位に経っていたんだけど、源義経の機転がきいた作戦(禁じ手なんだけどね…。)が功を奏し、一気に形勢逆転。
源氏の勝利は確実なものに。
「もはやこれまで」平氏の武将たちは次々と海に飛び込んでいく。
「海の底にも都はございましょう…。」まだ幼かった安徳天皇も、祖母である二位尼(清盛の正室)の腕に抱かれ、冷たい海底に沈んでいった。
ここに栄華を極めた平氏一門はついに滅んだのでした。
この戦乱のことを歴史的には治承・寿永の乱と言い、約6年間続いたんだよ。
平安時代の武士のおこり要点まとめ!
重要な語句を下にまとめたよ。
- 武士団=棟梁を中心に成長
- 935年平将門の乱=関東
- 936年藤原純友の乱=瀬戸内海
- 院政=位を譲り上皇となって政治を行う=白河上皇
- 平清盛=武士で初めて太政大臣へ=貴族風の政治
- 日宋貿易=清盛が宋とおこなった貿易=宋銭の輸入
- 源平の争乱=源氏と平氏の争い=源頼朝の勝利
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