【明智光秀がしたことは?】生涯年表を使って簡単にまとめるぞ!

明智光秀。

あの有名な大事件、本能寺の変を起こした人物として知らない人はいないだろう。

あの事件のせいで「裏切り者」というイメージが根強い光秀なんだけど、本当はどんな人物だったんだろう。

明智光秀がしたことは?生涯年表まとめ!

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謎の多い苦労人から大名へと大出世

光秀の生まれは美濃。現在の岐阜県にあたる。

でも、出自は謎が多くて父親も諸説あり。

 

初めは美濃を治める斉藤道三に仕えていたんだけど、

この斉藤家が内乱(父子の争い)でのゴタゴタの末に主君である道三が滅ぼさてしまった。

(ちなみに斉藤道三の娘である帰蝶はあの織田信長の正室。光秀とも母方のいとこ同士だったのではともわれているんだ。)

 

ここから光秀の苦労は始まる。

追手から逃げるために全国を放浪し、主君を持たない浪人なってしまう。

毎日の生活も厳しく各地を転々とする日々。

 

でも、光秀はそんな苦境に立たされながらも、鉄砲の最新技術を学んだり、和歌を始めとする教養を身に着けたりと努力を惜しまなかった。

このことがあとから光秀の出世に役に立つんだ。

(光秀は鉄砲の名手であったと伝えられているよ。)

 

そして、光秀は越前の国(福井県)の朝倉氏に仕えることになった後、

織田信長に才能を見出され、家臣となったんだ。

光秀40歳、信長は34歳の時だ。

 

光秀は信長の元、メキメキと頭角を現し比叡山延暦寺焼き討ちなどの重要な戦で大活躍した。

また教養があり、頭も良かったから戦以外の戦略でも重宝されたんだ。

そして、浪人時代は考えられない34万石の大名へと大出世を果たしたんだ。

伝えられている人物像~愛妻家としたたかな戦略家~

光秀は正室のほかに側室を持たなかった愛妻家としても有名だ。

この時代は一夫多妻制が普通で力のある武士は多くの妻を持っていた。

(豊臣秀吉や徳川家康など)

 

でも、光秀は浪人時代はもちろん、出世して大名になった後も正室1人を大事にしていた。

この正室は光秀浪人時代の生活が厳しかったとき、自分の美しい黒髪を売ってまで生活費の足しにしていたという話が伝わるほど内助の功で光秀を助けていたんだ。

 

この2人の間には3男4女(6男7女ともいわれる)の子宝にも恵まれ、美男美女カップルだったことから子供も美形だったみたい。

薄幸の美女と言われるあの細川ガラシャ(本名・玉子)もこの2人の子供だよ。

 

また、光秀は頭も良く気品もあり穏やかな性格。

人当たりも上々だったらしい。

 

人当たりも良くて仕事もできる。そりゃ信長も重宝するし、現在でもこんな人が会社にいたら出世街道まっしぐらだよね。

おまけにイケメン。モテそう。

 

でも、光秀にはもう1つ別の顔があったらしい。

狡猾で冷淡。

※狡猾(こうかつ)…悪賢い

 

これは当時、信長に仕えていたルイス・フロイスという人物が書いた書物の中で語られている光秀の姿だ。

頭も良くキレるが、自分の出世のためなら上へのごますりを欠かさず、自分を良く見せようとする裏工作なんてお手の物。

指揮官としては有能だけど、刑を科するときは冷酷無慈悲。

おまけに家臣団からはよそ者だから嫌われている。などなど、なんちゅう言われよう…。

 

光秀の印象が変わってくるよね。

でも良い人だけではあの厳しい戦国の世は生きていけない。

こんなしたたかな面も戦国の世を生き抜いていくためには必要だったのかもしれない。

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本能寺の変~歴史に名高い裏切り者~

54歳になった光秀は信長から、中国地方を攻略中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)への援軍を命じられる。

3万の兵を率いて中国地方へと向かう光秀。

しかし、道中に光秀はある言葉を高らかに宣言し、行き先を中国地方ではなく京都へと変更した。

 

「敵は本能寺にあり」

 

歴史上、最も有名なこの裏切りである「本能寺の変」。

光秀は京都の本能寺の泊まっていた織田信長を突然攻め、信長は自害。

(光秀の仕業だと知った信長は一言「ぜひもなし=しょうがない」と言ったそうな)

 

ではなぜ、光秀はこんな事件を起こしたのか。

これにはいろんな説があるけど、本当のところはまだわかってないんだ。

主な説をみてみよう。

  • オレ様な態度でむちゃくちゃする(金柑頭がー!っていって足蹴にされたこともある)信長に光秀が切れたという説。(信長パワハラ説)
  • 元々、光秀は天下をねらっていたという説。(光秀の野望説)
  • 後に天下人となる豊臣秀吉に良いように利用されて動いたという説。(ブラック秀吉説)
  • 浪人だった自分を拾ってくれた朝倉家や足利氏、朝廷に頼まれてしかたなくという説。(忠義の光秀説)

この4つが有名どころだ。

ドラマなどでよく取り上げられているのが①の説だね。

でも、どの説にしてもこれっていう決まり手がなく、このとき光秀が何を思ってこんな行動にでたのかは戦国最大の謎となっている。

 

そして、この本能寺の変の後、

光秀は天下人となったかというとそうではない。

 

中国地方からものすごいスピードで爆進してきた秀吉によって、山崎の戦いであっけなく負けてしまう。

秀吉の裏工作により、光秀に味方する人もほとんどいなかったみたい。

光秀は戦に敗れた後、落ち武者狩りに襲撃され命を落とした。

享年54歳。その場所は「明智藪」と呼ばれ現在の京都にあるんだよ。

この光秀の短い天下は「三日天下」なんて言われて人々から憐れまれたんだ。

まとめ

歴史上の裏切り者知名度№1の明智光秀。

その人物像を知れば知るほど「本能寺の変の首謀者」ではなく「明智光秀」という人物の魅力を感じられると思います。

本能寺の変は織田信長にスポットがあたるけど、明智光秀サイドから見てみるとまた違った見方ができるかもしれないね。

2020年の大河ドラマは明智光秀が主役。

どんな人物として描かれるのか。

また、明智光秀や本能寺の変を題材にした小説や映画などはたくさんあるので、興味がある人はぜひ見てみてくださいね!

 

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